暗号資産業界の熱狂とカオスを描く──マイケル・ルイス著『1兆円を盗んだ男 仮想通貨帝国FTXの崩壊』

小林 啓倫

本・書籍金融・銀行・暗号資産
何かとうるさい世の中になった。やれガバナンスだの、コンプライアンスだの、束縛されることが多すぎる。もっと自由に仕事させてくれれば、すぐに良い結果を出せるのに──日頃、会社の中でそんな思いを抱かれている方は、ぜひ本書『1兆円を盗んだ男 仮想通貨帝国FTXの崩壊』(日経BP社)を手に取ってみていただきたい。読み終える頃には、きっとガバナンスのある世界が恋しくてたまらなくなるだろう。

本書は2023年10月に発行された、『Going Infinite: The Rise and Fall of a New Tycoon(無限を目指す:新たな大富豪の栄光と没落)』の邦訳である(何を隠そう、筆者が翻訳を担当させていただいた一冊だ)。

暗号資産の世界で巨額の財を成した、サム・バンクマン=フリードという人物を追った本で、著者は日本でもお馴染みのマイケル・ルイス。後述する理由から、原著は米国で大きな注目を集めている。またルイスの本としては珍しくというべきだろうか、その評価は賛否両論であり、このあたりの事情についても解説しておきたい。

『マネー・ボール』などで知られる米・人気作家の最新作

ご存知の方も多いとは思うが、まずは著者について触れておこう。マイケル・ルイスは米国のノンフィクション作家で、多くの作品を世に送り出してきた売れっ子だ。彼の代表作といえば、何といってもブラッド・ピット主演で映画化までされた『マネー・ボール』(米メジャーリーグでデータ解析を武器にチームを率いた、元オークランド・アスレチックスGMのビリー・ビーンを追った作品)が挙げられるだろう。

また早くも2021年には、新型コロナウイルスのパンデミックと、それをめぐる米国政府の混乱を描いた作品『最悪の予感』を発表しており、その嗅覚の高さと守備範囲の広さを見せつけた。ただルイスはもともと投資銀行ソロモン・ブラザーズでキャリアをスタートさせた人物であり、金融に関係する事件やトピックを扱うことを得意としている。

例えばデビュー作であり、1980年代ウォール街における投資銀行の裏側を暴いた『ライアーズ・ポーカー』や、2008年のリーマンショックを扱った作品『世紀の空売り』(こちらも映画化され、クリスチャン・ベールやライアン・ゴズリングといった人気俳優が出演している)、株式市場における高頻度取引(HFT)の内幕を描いた『フラッシュ・ボーイズ』といった作品を発表している。その系譜に連なるのが本書『1兆円を盗んだ男』というわけだ。実は本書も映像化が決定しており、アップルがその権利を取得している。

暗号資産によって大富豪となった男の栄光と失墜

本書はルイスが2021年の末頃に、本作品における主人公ともいえる「新たな大富豪」ことサム・バンクマン=フリードに会いに行く場面から始まる。彼は元トレーダーで、暗号資産取引などで財を成し、自ら暗号資産取引所のFTXを立ち上げた人物だった。

2009年に世界初の暗号通貨であるビットコインが登場すると、それを取引するための場所が必要になり、2010年代に入ると暗号資産取引所の立ち上げが相次いだ。FTXは開設が2019年と後発だったが、市場ニーズに合わせたサービスを提供することで成功を収め、多額の資金調達にも成功。バンクマン=フリードは瞬く間に億万長者となり、暗号資産界隈(かいわい)でも注目を集めるようになった。本書に登場する表現を借りれば、それはフェイスブック創業者のマーク・ザッカーバーグに匹敵するほど。しかしあまりに急に表舞台に出てきたためか、彼の多くは謎に包まれていた。

ルイスはそんな彼の素性を、とある人物から頼まれて探りに来たのだった。それが誰なのか、本文中では明らかにされないが、実は『フラッシュ・ボーイズ』に登場するブラッド・カツヤマだそうだ。本書でも『フラッシュ・ボーイズ』のテーマであったHFT(高頻度取引)業者に言及した箇所がある。つまりルイスがバンクマン=フリードに導かれたのは必然といえるかもしれない。

いずれにしてもルイスは、この奇妙な人物に一瞬で興味を抱く。それから彼を追い始めるのだが、タイミング良くといったら不謹慎だろうか、取材開始からおよそ1年後の2022年11月、FTXが突如として破綻してしまう。しかもバンクマン=フリードには、巨額の詐欺の疑いまでかけられた。そんな中で出版された原著は、まさにタイムリーな内容であり、米国で大きな話題となった。本書はこのFTX破綻、そしてサム・バンクマン=フリードの失墜という大事件を軸に、彼はいったい何者だったのか、なぜ当時30歳という若さで「大富豪」になり得たのか、手にした大金で何をしようとしていたのかを描いている。

米テック業界に広まる「効果的利他主義」

本書で重要となるキーワードのひとつに「効果的利他主義(EA:Effective Altruism)」がある。これは今、米国のテック業界で「宗教」と呼ばれるほどの普及を見せている思想で、限られたリソースを最も「効果的」に活用することによって他者の幸福の最大化を目指すという考え方だ。

本文中にも説明がある通り、効果的利他主義は1970年代に哲学者ピーター・シンガーが唱えた「浅い池」と呼ばれる思考実験が基になっている。多くの人は、子どもが浅い池で溺れているのを目撃したら、たとえ自分の新しい靴がダメになってしまうとしても、迷わず池に飛び込んでその子を救うだろう。ならば遠くで苦しんでいる子どもを救うために、自分の持つ靴、すなわち資産を、援助のために送るのが正しい行いのはずだ――この考え方から「他人のために自分の資産を使おう、そのために資産を増やすことにも取り組もう」という思想にまで発展していく。

この思想が効果的利他主義という形で具現化されたのは、2000年代に入ってからだ。本書にも登場するトビー・オードやウィリアム・マッカスキルといった人びとがこの思想を体系化し、さらに「お金をたくさん稼いで寄付してくれる人」の予備軍を集めるため、有名大学の優秀な若者に対し効果的利他主義を精力的に広めた。そうして効果的利他主義を信奉するようになった大物の1人が、本作品の主人公であるサム・バンクマン=フリードで、彼はその「教義」を実直に守り、金もうけにまい進したというわけだ。

効果的利他主義は、いま話題の生成AI「ChatGPT」の開発企業であるOpenAIにおいて、2023年末に起きた内紛劇に関係しているともいわれている。同社の経営陣の中には効果的利他主義者が多く含まれ、社長のサム・アルトマンが抱いていた、テクノロジーの急速な発展を支持する思想(こちらは「効果的加速主義:Effective Accelerationism」と呼ばれ、「e/acc」などと略される)と対立したのだ。ここからも、今の米国の金融・テック業界を理解する上で、効果的利他主義がいかに重要な存在なのかがわかるだろう。

効果的利他主義に対しては、それが逆に、弱者を救うという点でむしろマイナスになっているという指摘も多い。例えば哲学者リーフ・ウェナーは、その問題点を「効果的利他主義の死」という長い論文にまとめ、WIRED誌に寄稿している(今回のマイケル・ルイスの新刊も、その論拠のひとつとして使われている)。この新しい「宗教」を信じた者の末路という観点からも、本書を楽しむことができるはずだ。
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小林 啓倫

経営コンサルタント
1973年東京都生まれ、獨協大学外国語学部卒、筑波大学大学院修士課程修了。システムエンジニアとしてキャリアを積んだ後、米バブソン大学にてMBAを取得。その後外資系コンサルティングファーム、国内ベンチャー企業などで活動。著書に『FinTechが変える!金融×テクノロジーが生み出す新たなビジネス』(朝日新聞出版)、『IoTビジネスモデル革命』(朝日新聞出版)、訳書に『ソーシャル物理学』(アレックス・ペントランド著、草思社)、『シンギュラリティ大学が教える 飛躍する方法』(サリム・イスマイル著、日経BP)など多数。

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