2026年の大河ドラマ『豊臣兄弟!』。おなじみ戦国時代を舞台にしながら、豊臣秀吉(演:池松壮亮さん)の弟・秀長(演:仲野太賀さん)の視点から物語を描く、新しい試みとなっている。
天下人・秀吉の陰に隠れがちな存在だが、秀長は「彼なしでは秀吉は天下を取れなかっただろう」と評されるほどの人物だ。ドラマで描かれる秀長の姿を手がかりに、史料などを踏まえながら、彼がどのような選択を重ねていったのかを考えてみたい。
今回は、中国方面攻略期(1577〜1582年)に焦点を当て、秀長がどのような役割を担ったのかを読み解いていく。
天下人・秀吉の陰に隠れがちな存在だが、秀長は「彼なしでは秀吉は天下を取れなかっただろう」と評されるほどの人物だ。ドラマで描かれる秀長の姿を手がかりに、史料などを踏まえながら、彼がどのような選択を重ねていったのかを考えてみたい。
今回は、中国方面攻略期(1577〜1582年)に焦点を当て、秀長がどのような役割を担ったのかを読み解いていく。
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中国方面攻略という“大事業”
1577年(天正5年)10月から始まる織田信長(演:小栗旬さん)による中国方面攻略は、戦国期最大級の長期遠征事業だ。
播磨を皮切りに但馬、備前、美作を経て、最終目的地は中国10カ国を治める毛利氏。総司令官は羽柴秀吉、その傍らで弟の秀長(当時の名乗りは木下小一郎)が一貫して兄の補佐に当たった。1582年(天正10年)に起きた、有名な「中国大返し」に至るまで、実に5年の歳月が費やされている(本能寺の変が起きなければさらに長引いていただろう)。
私たちが思い浮かべる中国攻めは、その「中国大返し」など、秀吉本人の決断や機略にまつわるエピソードが中心だろう。しかしその1577年の播磨進攻から始まる地道な戦線構築期にこそ、後年の豊臣政権の組織運営パターンが形作られている。とりわけ秀長がこの期間に担った役割は、後の大和大納言としての調整能力の原型を成すものでもあった。播磨・但馬・三木。この3つの戦場が、秀長の役割を読み解く鍵となる。
播磨を皮切りに但馬、備前、美作を経て、最終目的地は中国10カ国を治める毛利氏。総司令官は羽柴秀吉、その傍らで弟の秀長(当時の名乗りは木下小一郎)が一貫して兄の補佐に当たった。1582年(天正10年)に起きた、有名な「中国大返し」に至るまで、実に5年の歳月が費やされている(本能寺の変が起きなければさらに長引いていただろう)。
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戦場となった播磨・但馬・三木の位置関係(筆者がChatGPTで生成)
1577年、播磨侵攻と竹田城代への就任
信長の中国方面攻略命令を受けた秀吉は、1577年(天正5年)10月23日に京(畿内)から播磨へ出陣する。信長時代の一次史料として知られる『信長公記』によれば、秀吉軍は播磨国中を迅速に動き、諸勢力から人質を取って播磨を織田方に固めたあと、ただちに但馬へ進攻した。山口・岩淵の諸城を攻め、続いて竹田城を攻略。
そして同じく1577年、秀吉はこの竹田城に弟・秀長を城代(城の管理を任された役職)として入れ置いたのである。秀吉は本隊をさらに西へ進め、年内には備前・美作と接する西播磨の要衝・上月城を攻略する。播磨から但馬・備前への戦線拡大が、わずか数カ月のうちに進んだ計算になる。
ここで思い出しておきたいのが、本連載第3回で取り上げた1570年代前半の「横山城時代」だ。秀吉が信長から横山城を任され、その実務を秀長が現地で支えた経験が、わずか数年後の中国方面攻略でほぼ同じ構図で再現されている。兄は軍事・攻勢面を担当し、弟は奪取したばかりの拠点に腰を据えて支配を固める。この役割分担は、もはや偶然ではなく、兄弟が意識的に運用する組織運営パターンになっていたと見るのが自然だろう。
竹田城は標高約353メートルの山城で、円山川と播但街道を見下ろす要衝にある。播磨を表玄関とする中国方面攻略にとって、山陰側からの背後を押さえる位置にあった。当時37歳の秀長が、播磨平定の最前線が動くなかで但馬の押さえとして配置されたことの戦略的重みは小さくない。竹田城はその後、いったん毛利側の手に戻るが、1580年(天正8年)に再び奪取されている。
城代という役職は、現代の感覚でいえば「子会社の社長」に近い。城の防衛・修繕、城下町の経営、徴税、領内の人事、そして近隣勢力との交渉まで、現地の差配は基本的に城代の裁量で進められる。城主(この場合は秀吉、さらにその上の信長)からは大方針が示されるが、日常の決断は城代が下す。秀長はすでに、1574年(天正2年)の長島一向一揆攻めや1575年(天正3年)の越前出兵を経て、独立した指揮官としての経験を積んでいた。竹田城代への就任は、その実績の上に立つ役回りだったことになる。
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城代という役職は、現代の感覚でいえば「子会社の社長」に近い。城の防衛・修繕、城下町の経営、徴税、領内の人事、そして近隣勢力との交渉まで、現地の差配は基本的に城代の裁量で進められる。城主(この場合は秀吉、さらにその上の信長)からは大方針が示されるが、日常の決断は城代が下す。秀長はすでに、1574年(天正2年)の長島一向一揆攻めや1575年(天正3年)の越前出兵を経て、独立した指揮官としての経験を積んでいた。竹田城代への就任は、その実績の上に立つ役回りだったことになる。
2年の包囲戦──秀長が担った背後の守り
1578年(天正6年)2月、東播磨の有力国衆(戦国期に各地の領主として独立性を保ちつつ、大名に従属した中小の武士勢力)・別所長治が突然織田方から離反する。彼の城だったのが、代々別所一族が拠点としてきた、播磨国美嚢郡三木(現在の兵庫県三木市上の丸町)の三木城。これにより秀吉の中国方面攻略は、三木城という巨大な障害物を前に長期戦に引きずり込まれることになった。いわゆる三木合戦の始まりである。
この合戦は1578年2月から1580年(天正8年)1月までの2年弱に及び、最終的に城内では数千人の餓死者が出る「三木の干殺し」と呼ばれる凄惨(せいさん)な兵糧攻めで決着した。
つまり三木合戦の本質は、正面攻撃ではなく、兵糧攻めを可能にするための補給路の遮断にあった。三木城には毛利方からの兵糧搬入があり、それを潰さなければ城は落ちない。秀吉本隊は書写山などを拠点に三木周辺の支城を1つずつ攻略し、新たな城も築いて包囲網を絞り上げていく。その間、秀長が任された竹田城は、山陰側の毛利の動きをけん制する役回りを担った。
三木城の攻防だけを見ていると見落としてしまいがちだが、毛利が大規模な支援を送れなかった背景の1つには、但馬・因幡方面で秀長が押さえを利かせていた事実があるといってよいだろう。
ただし、秀長も連戦連勝の万能の将ではない。1579年(天正7年)6月27日、三木城の補給路上にあった淡河城を攻めた際、城主・淡河定範の奇策に翻弄(ほんろう)されて敗退したと伝わる。定範は牝馬の群れを秀長軍に向かって放ち、騎馬隊の雄馬がこれに反応して陣形を崩した隙に、城に火を放って三木城へ撤退したという。秀長の戦歴で「唯一の敗戦」と評される一件である。
記録のディテールには諸説あるが、この時期の秀長が淡河方面で苦戦したこと自体は複数の系統で語り継がれている。万全の補佐役にも穴はあるという事実は、後年の秀長像を考えるうえでも示唆的だ。
そして1580年(天正8年)1月17日、三木城はついに開城する。別所長治とその一族は自害し、三木合戦は終結した。
この合戦は1578年2月から1580年(天正8年)1月までの2年弱に及び、最終的に城内では数千人の餓死者が出る「三木の干殺し」と呼ばれる凄惨(せいさん)な兵糧攻めで決着した。
つまり三木合戦の本質は、正面攻撃ではなく、兵糧攻めを可能にするための補給路の遮断にあった。三木城には毛利方からの兵糧搬入があり、それを潰さなければ城は落ちない。秀吉本隊は書写山などを拠点に三木周辺の支城を1つずつ攻略し、新たな城も築いて包囲網を絞り上げていく。その間、秀長が任された竹田城は、山陰側の毛利の動きをけん制する役回りを担った。
三木城の攻防だけを見ていると見落としてしまいがちだが、毛利が大規模な支援を送れなかった背景の1つには、但馬・因幡方面で秀長が押さえを利かせていた事実があるといってよいだろう。
ただし、秀長も連戦連勝の万能の将ではない。1579年(天正7年)6月27日、三木城の補給路上にあった淡河城を攻めた際、城主・淡河定範の奇策に翻弄(ほんろう)されて敗退したと伝わる。定範は牝馬の群れを秀長軍に向かって放ち、騎馬隊の雄馬がこれに反応して陣形を崩した隙に、城に火を放って三木城へ撤退したという。秀長の戦歴で「唯一の敗戦」と評される一件である。
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そして1580年(天正8年)1月17日、三木城はついに開城する。別所長治とその一族は自害し、三木合戦は終結した。

小林 啓倫
経営コンサルタント
1973年東京都生まれ、獨協大学外国語学部卒、筑波大学大学院修士課程修了。システムエンジニアとしてキャリアを積んだ後、米バブソン大学にてMBAを取得。その後外資系コンサルティングファーム、国内ベンチャー企業などで活動。著書に『FinTechが変える!金融×テクノロジーが生み出す新たなビジネス』(朝日新聞出版)、『IoTビジネスモデル革命』(朝日新聞出版)、訳書に『ソーシャル物理学』(アレックス・ペントランド著、草思社)、『シンギュラリティ大学が教える 飛躍する方法』(サリム・イスマイル著、日経BP)など多数。












