一つの「和解」としてのWindows 10
いわばWindows 10は、暴走したWindows 8をなだめ、Windows 7の実直さを取り戻し、それでいてスマートフォン時代からも目を逸らさなかった、マイクロソフトなりの和解案だったのだと思う。
スタートメニューは帰ってきた。タスクバーは上下左右どこにでも好きな場所に動かせた。ウィンドウを画面の端に寄せれば、空いたところに別ウィンドウの候補を並べて教えてくれるようになったし、仮想デスクトップも使えるようになった。あまりにも当たり前すぎて、誰も褒めることをしなかった機能の一つ一つに、「もう二度とユーザーを裏切らない」という、静かな決意が宿っていたのではないか。今になって、そんな気がしている。
何より僕がWindows 10を好きだったのは、その分かりやすさだった。
マニュアルをひも解かなくても、右クリック一つ、ドラッグ一つで、たいていのことは直感的にできてしまう。覚えなければならないことは、驚くほど少なかった。パソコンに詳しい人だけでなく、初めてノートPCを買った学生も、事務作業でパソコンに向き合う人も、誰もが同じスタート画面から迷わず入っていける。そんな、間口の広さこそがWindows 10の最大の発明だったのではないか。
しかしMacOSとは違う。Windows 10は主役として褒め上げられるタイプのOSではなかった。
派手な新機能でユーザーを驚かせるより、いつも通りに起動し、いつも通りに仕事をこなし、いつも通りに眠りにつく。そういう、縁の下の力持ちとしての在り方を貫いてきた。けれど、その地味さこそが正しく評価されてきた。僕だけではない。あの頃、世界中の何億台ものWindows PCの前で、名前も知らないたくさんの人たちが、同じサウンドロゴを聞きながら、それぞれの1日をWindows 10とともに過ごしていた。
声高に語られることはなかった。けれど確かな相棒としての信頼と愛着が、世界中のデスクの上に積み重なっていたはずだ。
スタートメニューは帰ってきた。タスクバーは上下左右どこにでも好きな場所に動かせた。ウィンドウを画面の端に寄せれば、空いたところに別ウィンドウの候補を並べて教えてくれるようになったし、仮想デスクトップも使えるようになった。あまりにも当たり前すぎて、誰も褒めることをしなかった機能の一つ一つに、「もう二度とユーザーを裏切らない」という、静かな決意が宿っていたのではないか。今になって、そんな気がしている。
何より僕がWindows 10を好きだったのは、その分かりやすさだった。
マニュアルをひも解かなくても、右クリック一つ、ドラッグ一つで、たいていのことは直感的にできてしまう。覚えなければならないことは、驚くほど少なかった。パソコンに詳しい人だけでなく、初めてノートPCを買った学生も、事務作業でパソコンに向き合う人も、誰もが同じスタート画面から迷わず入っていける。そんな、間口の広さこそがWindows 10の最大の発明だったのではないか。
しかしMacOSとは違う。Windows 10は主役として褒め上げられるタイプのOSではなかった。
派手な新機能でユーザーを驚かせるより、いつも通りに起動し、いつも通りに仕事をこなし、いつも通りに眠りにつく。そういう、縁の下の力持ちとしての在り方を貫いてきた。けれど、その地味さこそが正しく評価されてきた。僕だけではない。あの頃、世界中の何億台ものWindows PCの前で、名前も知らないたくさんの人たちが、同じサウンドロゴを聞きながら、それぞれの1日をWindows 10とともに過ごしていた。
声高に語られることはなかった。けれど確かな相棒としての信頼と愛着が、世界中のデスクの上に積み重なっていたはずだ。
輪郭を洗い直された、その先で
その一方でWindows 11は、Windows 10が10年以上をかけて積み重ねてきた細かな挙動の多くを、いったん削ぎ落としてしまった。AppleやGoogleが築くエコシステムを恐れたというのもあるのだろうか。丸くなったスタートメニュー、中央へ寄せられたタスクバー。マイクロソフト自身が「デザインとユーザー体験を簡素化した」と語るとおり、それはスマートフォン時代の感覚に合わせて、OSの輪郭を洗い直す作業だったのだろう。
けれどWindows 10を使い慣れた者にとっては、長年連れ添った靴を、ある日、突然、替えられたような違和感が残った。
そう感じた人は少なくなかったようだ。Windows 11は従来のMe、Vista、8のような「なぜ仕様を変えたのか」という不満の声でSNSで膨らんだ時期がある。これはWindows 10があまりにも自然に、あまりにも多くの人の手になじんでいたからだと思う。特別な訓練を必要としない親しみやすさは、失われて初めてその価値が気づかれるのだろう。
ところでマイクロソフトは後になって、タスクバーボタンを結合させない機能や、タスクバーを自由に移動できる機能を、少しずつ11の中に戻していった。まるで、もう使わない道具を実家を置いて独立した子が、後になってやはりあの道具は便利だった、必要だったと気づき、こっそり取りに戻ってくるように。
けれどWindows 10を使い慣れた者にとっては、長年連れ添った靴を、ある日、突然、替えられたような違和感が残った。
そう感じた人は少なくなかったようだ。Windows 11は従来のMe、Vista、8のような「なぜ仕様を変えたのか」という不満の声でSNSで膨らんだ時期がある。これはWindows 10があまりにも自然に、あまりにも多くの人の手になじんでいたからだと思う。特別な訓練を必要としない親しみやすさは、失われて初めてその価値が気づかれるのだろう。
ところでマイクロソフトは後になって、タスクバーボタンを結合させない機能や、タスクバーを自由に移動できる機能を、少しずつ11の中に戻していった。まるで、もう使わない道具を実家を置いて独立した子が、後になってやはりあの道具は便利だった、必要だったと気づき、こっそり取りに戻ってくるように。
それでも、終わらないもの
そう考えると、Windows 10は本当に「終わる」のだろうかと、ふと立ち止まってしまう。
Windowsは、いつだって何かを恐れながら形を変えてきた。外からやってくる黒船だけでなく、時には自分自身の少し前の姿にさえ怯え、追い立てられるようにして変わり続けてきた。その連鎖の中で、Windows 10だけは珍しく、ユーザーのことを恐れなかった時代だったのかもしれない。
だから来年、 2027年10月12日にESUプログラムが終了したとしても、私はこう思うことにしている。
Windows 10が、死んだのではない。Windows 10が示したユーザーとの和解のかたちが、次の世代へと引き継がれていくのだ、と。
Windowsは、いつだって何かを恐れながら形を変えてきた。外からやってくる黒船だけでなく、時には自分自身の少し前の姿にさえ怯え、追い立てられるようにして変わり続けてきた。その連鎖の中で、Windows 10だけは珍しく、ユーザーのことを恐れなかった時代だったのかもしれない。
だから来年、 2027年10月12日にESUプログラムが終了したとしても、私はこう思うことにしている。
Windows 10が、死んだのではない。Windows 10が示したユーザーとの和解のかたちが、次の世代へと引き継がれていくのだ、と。

武者 良太
1971年生まれ。ライター/ジャーナリスト。出版社勤務を経て独立し、Kotaku Japan編集長を務めた。スマートフォン、AI、XR、オーディオ、カメラを中心に、製品レビューから開発者へのインタビュー、技術が暮らしやビジネスに与える影響まで幅広く取材。ギズモード・ジャパン、ITmedia、東洋経済オンラインなどに寄稿。ユーザー目線でテクノロジーを伝える。














