言えば言うほどヤボになる映画
晴れて『君たちはどう生きるか』を見た人間として、みんなが沈黙を守る理由はいくつかあると考えました。
まず、ほんの小さな理由としてあるのは「まだ見ていない人を気遣っている」です。ザ・オトナの配慮というやつですね。SNSで作品名をミュートにしたり、ネタバレを恐れるあまり公開初日の深夜に映画館に駆け込む人だっていますからね(仕事でクタクタになって眠くても、ネタバレに灼かれるより100倍マシなわけです)。
でも、それは他の映画でも同じ。どんな映画でもみんな、それなりに気を遣ってくれています。
もっと大きな理由は「何を言う……?」と思案するうちに「あっ、これは言うのはヤボだ!」と気がついて、黙っちゃうのです。
だから「この映画の“情報”をベラベラ話すヤボな人が周りにいなくてよかった」と心底思いました。「“君たちはどう生きるか”の略称ってなんだっけ?」という話ですら全然まとまらなくて、ホントよかった。「考察」とか「裏設定」とか「宮崎駿がどんな思想や作家に影響を受けたか」なんて話は、この映画を語る上で本当につまらない。なぜなら、それらはすべて情報にすぎないからです。
何か情報発信するために映画やライブを見たり、食事に行くのは、むなしくて不自由な行為に思えます。
なのに情報やトリビアは人間を興奮させます。知ると気持ちがいいんです(私だって「イオンモール天童ってイモ天って呼ばれてるんだ!」と知ってイモ天って連呼しましたもん)。だから検索は楽しいし、YouTubeで考察動画のPVが跳ね上がり、さらに手っ取り早く知りたい人は考察動画の「切り抜き動画」を1.5倍速なんかで見て、安心して映画館に答え合わせをしに行くのでしょう。
でも、情報やトリビアばかりで構成された人間はとても惨めでつまらない存在で、そもそも情報が人生を形作るわけではありません。情報があったところで、何もわからないんです。
私は『君たちはどう生きるか』の内容を解説する情報を見聞きするくらいなら、質の低い修士論文をみっちり読む方がマシだとすら思っています。……と、自分の「考察」や「小ネタ」への苦手っぷりを痛感しました。人間やその人間の豊かなイマジネーションに向かって、答え合わせなんてナメたこと、したくないんですよ。それは批評からはほど遠く、失礼かつ空虚なことです。
そして『君たちはどう生きるか』は「感想を頑張って語れば語るほど、その人の内面が見えてしまう」作品でもあります。
人は、誰かの心象風景を語ろうとすると、自分の心象風景に必ずぶつかります。自分の胸の内や、自分が見ている世界を通さないことには、それらを表す言葉は見つからないからです。そして、それすら「誰かの心象風景そのもの」にはなりえません。あくまで「私が見たもの」です。ああ、だからみんな慎重に黙っていたし、私もこんな遠回りをしながら書いているのか。
何を美しいと思って、いつ怖いと感じて、どんな場面にオイオイそりゃないだろと戸惑って、どんなアニメーションに泣きそうになったか。そういうことを、親しい人や「この人になら言っても大丈夫だな」と思った人にほんの少し話したり、あるいはなんにも言わずに作品の隣にただ座っているだけ。それが、『君たちはどう生きるか』の私の楽しみ方です。もう1回劇場で見たいな。
まず、ほんの小さな理由としてあるのは「まだ見ていない人を気遣っている」です。ザ・オトナの配慮というやつですね。SNSで作品名をミュートにしたり、ネタバレを恐れるあまり公開初日の深夜に映画館に駆け込む人だっていますからね(仕事でクタクタになって眠くても、ネタバレに灼かれるより100倍マシなわけです)。
でも、それは他の映画でも同じ。どんな映画でもみんな、それなりに気を遣ってくれています。
もっと大きな理由は「何を言う……?」と思案するうちに「あっ、これは言うのはヤボだ!」と気がついて、黙っちゃうのです。
だから「この映画の“情報”をベラベラ話すヤボな人が周りにいなくてよかった」と心底思いました。「“君たちはどう生きるか”の略称ってなんだっけ?」という話ですら全然まとまらなくて、ホントよかった。「考察」とか「裏設定」とか「宮崎駿がどんな思想や作家に影響を受けたか」なんて話は、この映画を語る上で本当につまらない。なぜなら、それらはすべて情報にすぎないからです。
何か情報発信するために映画やライブを見たり、食事に行くのは、むなしくて不自由な行為に思えます。
なのに情報やトリビアは人間を興奮させます。知ると気持ちがいいんです(私だって「イオンモール天童ってイモ天って呼ばれてるんだ!」と知ってイモ天って連呼しましたもん)。だから検索は楽しいし、YouTubeで考察動画のPVが跳ね上がり、さらに手っ取り早く知りたい人は考察動画の「切り抜き動画」を1.5倍速なんかで見て、安心して映画館に答え合わせをしに行くのでしょう。
でも、情報やトリビアばかりで構成された人間はとても惨めでつまらない存在で、そもそも情報が人生を形作るわけではありません。情報があったところで、何もわからないんです。
私は『君たちはどう生きるか』の内容を解説する情報を見聞きするくらいなら、質の低い修士論文をみっちり読む方がマシだとすら思っています。……と、自分の「考察」や「小ネタ」への苦手っぷりを痛感しました。人間やその人間の豊かなイマジネーションに向かって、答え合わせなんてナメたこと、したくないんですよ。それは批評からはほど遠く、失礼かつ空虚なことです。
そして『君たちはどう生きるか』は「感想を頑張って語れば語るほど、その人の内面が見えてしまう」作品でもあります。
人は、誰かの心象風景を語ろうとすると、自分の心象風景に必ずぶつかります。自分の胸の内や、自分が見ている世界を通さないことには、それらを表す言葉は見つからないからです。そして、それすら「誰かの心象風景そのもの」にはなりえません。あくまで「私が見たもの」です。ああ、だからみんな慎重に黙っていたし、私もこんな遠回りをしながら書いているのか。
何を美しいと思って、いつ怖いと感じて、どんな場面にオイオイそりゃないだろと戸惑って、どんなアニメーションに泣きそうになったか。そういうことを、親しい人や「この人になら言っても大丈夫だな」と思った人にほんの少し話したり、あるいはなんにも言わずに作品の隣にただ座っているだけ。それが、『君たちはどう生きるか』の私の楽しみ方です。もう1回劇場で見たいな。
花森 リド
ライター・コラムニスト
主にゲーム、マンガ、書籍、映画、ガジェットに関する記事をよく書く。講談社「今日のおすすめ」、日経BP「日経トレンディネット」「日経クロステック(xTECH)」、「Engadget 日本版」、「映画秘宝」などで執筆。
X:@LidoHanamori