百姓と足軽の違い
百姓と足軽では大きな違いがあるように思われがちだが、実際には明確な線引きがあったわけではないようだ。
戦国時代の「足軽」は「半武士・半農民」的な存在で、農民よりは上だが、本格的な武士身分ではない中間層だったという。平時は農業や他の仕事に従事し、有事の際には雑兵として動員される。その報酬はわずかで、第1回でも描かれていたように、戦乱のどさくさにまぎれて物資を略奪する例もあった。
これも第1回で示されていたが、秀長のように「戦いに巻き込まず、田畑を耕していたい」と考える者もいれば、「戦は物資を分捕れるから大歓迎」と受け止める者もいたのだろう。
いずれにせよ、豊臣兄弟の一族は、普段は農家として暮らしながら、時おり戦に動員される生活を送っていたようだ。
しかし、父親は末娘が生まれた1543年に死去。当時、秀吉6歳、秀長3歳、長女のとももまだ9歳で、一家の暮らしは相当に厳しくなったに違いない。
秀吉が光明寺という寺に預けられたとする史料もあるが、兄弟の幼少期を扱った史料は極端に少なく、その足取りははっきりしない。ただ、当時の年齢を考えれば、どこかに預けられていたか、奉公に出ていたと見るのが妥当だろう。
秀吉は10代の始めに中村を離れ、尾張にとどまらず、三河や美濃といった近隣の国々を渡り歩いて奉公するようになる。そして1554年(天文23年)ごろ、17歳前後の時期に、織田信長に「小者」(雑務を担う、最下層に近い奉公人)として仕え始めたという。
ただし、これも諸説あるため、信長に仕え始めた正確な時期や立場については、はっきりしていない。
秀長の若いころについては、秀吉以上に不明な点が多い。少なくとも第1回で描かれた1559年の時点では、半武士・半農民の生活を送っていたと見られる。
そこから、どのような経緯で兄と同じく信長に仕官し、武士一本の人生を歩むようになるのか。ドラマではどのような説を採用するのかに注目したい。
戦国時代の「足軽」は「半武士・半農民」的な存在で、農民よりは上だが、本格的な武士身分ではない中間層だったという。平時は農業や他の仕事に従事し、有事の際には雑兵として動員される。その報酬はわずかで、第1回でも描かれていたように、戦乱のどさくさにまぎれて物資を略奪する例もあった。
これも第1回で示されていたが、秀長のように「戦いに巻き込まず、田畑を耕していたい」と考える者もいれば、「戦は物資を分捕れるから大歓迎」と受け止める者もいたのだろう。
いずれにせよ、豊臣兄弟の一族は、普段は農家として暮らしながら、時おり戦に動員される生活を送っていたようだ。
しかし、父親は末娘が生まれた1543年に死去。当時、秀吉6歳、秀長3歳、長女のとももまだ9歳で、一家の暮らしは相当に厳しくなったに違いない。
秀吉が光明寺という寺に預けられたとする史料もあるが、兄弟の幼少期を扱った史料は極端に少なく、その足取りははっきりしない。ただ、当時の年齢を考えれば、どこかに預けられていたか、奉公に出ていたと見るのが妥当だろう。
秀吉は10代の始めに中村を離れ、尾張にとどまらず、三河や美濃といった近隣の国々を渡り歩いて奉公するようになる。そして1554年(天文23年)ごろ、17歳前後の時期に、織田信長に「小者」(雑務を担う、最下層に近い奉公人)として仕え始めたという。
ただし、これも諸説あるため、信長に仕え始めた正確な時期や立場については、はっきりしていない。
秀長の若いころについては、秀吉以上に不明な点が多い。少なくとも第1回で描かれた1559年の時点では、半武士・半農民の生活を送っていたと見られる。
そこから、どのような経緯で兄と同じく信長に仕官し、武士一本の人生を歩むようになるのか。ドラマではどのような説を採用するのかに注目したい。
下克上は「憧れ」だったのか?
このように戦国時代には、戦いに動員される農民は少なくなかった。その中には、武将に目をかけられ、秀吉のように武士となっていく者もいただろう。では『豊臣兄弟!』の秀吉のように、大名に仕官して名を上げようとする、いわば「下克上」を一発逆転のチャンスとして狙う平民は、実際どれほどいたのだろうか?
前述の通り、第1回では、戦に駆り出される農民たち(秀長以外)が「物資を奪えるから」という理由で、喜々として参加する様子が描かれていた。確かにそのような状況もあったのかもしれないが、必ずしも農民たちが積極的に動員を受け入れていたわけではなかったようだ。
大阪公立大学の「都市文化研究」第27号に掲載された論文「日本中近世移行期における戦争と軍事動員」では、戦国大名が必ずしも思い通りに兵力を動員できていたわけではなかったと示されている。農民を供出する村側や、大名の動員命令を受ける立場にあった国衆(戦国期に在地領主として各地域を治めていた地方武士層)が、指示に応じなかった例が数多く見られる。
同論文では、後北条氏が1587年(天正15年)や1589~1590(天正17〜18年)に、百姓を含む大規模な民衆動員(15〜70歳の男性)を行おうとした事例が紹介されている。その際、村側が“良き者”を村に残したり、「権門の被官(けんもんのひかん、『有力な権力者の家臣』という意味)」を名乗って動員を拒否したりする例が相次いだという。
戦国大名の中には、平民の動員について具体的な規則を設ける者もいた。しかし、そうした規定をわざわざ細かく定める必要があったこと自体が、動員命令が必ずしも守られていなかった実態を物語っている。
また、動員や領民統治の都合から、農繁期には戦闘を避ける傾向もあったと見られている。例外もあるにせよ、戦国大名であっても、兵力を動員する際には、農民の暮らしを配慮に入れなければならなかったわけだ。逆に見れば、それだけ農家も「農業で生計を立てる」ことを重視していたといえるだろう。
つまり農民にとって、「下克上」という道は閉ざされていなかったものの、それは「ワンチャン」のような一発逆転の機会として認識されていたのではなく、戦に動員されること自体が「避けたい危険な任務」と受け止められていた。秀吉のような成功は、極めて例外的な奇跡であり、一般的な選択肢ではなかった。
村を捨てて自発的に各地を放浪しながら武士を目指した秀吉と、恐らく(ドラマ内で描写されていたように)農民としての生活を捨てることをためらいながら、兄に従う道を選んだ秀長。どのような強い思いが、彼らに例外的な下克上の道を選ばせることになったのか、これから描かれていくに違いない。
前述の通り、第1回では、戦に駆り出される農民たち(秀長以外)が「物資を奪えるから」という理由で、喜々として参加する様子が描かれていた。確かにそのような状況もあったのかもしれないが、必ずしも農民たちが積極的に動員を受け入れていたわけではなかったようだ。
大阪公立大学の「都市文化研究」第27号に掲載された論文「日本中近世移行期における戦争と軍事動員」では、戦国大名が必ずしも思い通りに兵力を動員できていたわけではなかったと示されている。農民を供出する村側や、大名の動員命令を受ける立場にあった国衆(戦国期に在地領主として各地域を治めていた地方武士層)が、指示に応じなかった例が数多く見られる。
同論文では、後北条氏が1587年(天正15年)や1589~1590(天正17〜18年)に、百姓を含む大規模な民衆動員(15〜70歳の男性)を行おうとした事例が紹介されている。その際、村側が“良き者”を村に残したり、「権門の被官(けんもんのひかん、『有力な権力者の家臣』という意味)」を名乗って動員を拒否したりする例が相次いだという。
戦国大名の中には、平民の動員について具体的な規則を設ける者もいた。しかし、そうした規定をわざわざ細かく定める必要があったこと自体が、動員命令が必ずしも守られていなかった実態を物語っている。
また、動員や領民統治の都合から、農繁期には戦闘を避ける傾向もあったと見られている。例外もあるにせよ、戦国大名であっても、兵力を動員する際には、農民の暮らしを配慮に入れなければならなかったわけだ。逆に見れば、それだけ農家も「農業で生計を立てる」ことを重視していたといえるだろう。
つまり農民にとって、「下克上」という道は閉ざされていなかったものの、それは「ワンチャン」のような一発逆転の機会として認識されていたのではなく、戦に動員されること自体が「避けたい危険な任務」と受け止められていた。秀吉のような成功は、極めて例外的な奇跡であり、一般的な選択肢ではなかった。
村を捨てて自発的に各地を放浪しながら武士を目指した秀吉と、恐らく(ドラマ内で描写されていたように)農民としての生活を捨てることをためらいながら、兄に従う道を選んだ秀長。どのような強い思いが、彼らに例外的な下克上の道を選ばせることになったのか、これから描かれていくに違いない。

小林 啓倫
経営コンサルタント
1973年東京都生まれ、獨協大学外国語学部卒、筑波大学大学院修士課程修了。システムエンジニアとしてキャリアを積んだ後、米バブソン大学にてMBAを取得。その後外資系コンサルティングファーム、国内ベンチャー企業などで活動。著書に『FinTechが変える!金融×テクノロジーが生み出す新たなビジネス』(朝日新聞出版)、『IoTビジネスモデル革命』(朝日新聞出版)、訳書に『ソーシャル物理学』(アレックス・ペントランド著、草思社)、『シンギュラリティ大学が教える 飛躍する方法』(サリム・イスマイル著、日経BP)など多数。












