江戸時代のメディア王・蔦重こと蔦屋重三郎(演:横浜流星さん)の生涯を追う今年の大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~(以下、べらぼう)』。さまざまな問題に機転と度胸で立ち向かう蔦重の姿が魅力となって、大人気を博している。
しかし蔦重の活躍した18世紀後半(江戸時代中~後期)は、これまで大河ドラマではあまり取り上げられておらず、戦国時代や幕末を描いた作品と比べて視聴者の側に時代背景の情報が少ない。そこで復習がてら、作品内で扱われる出来事の補足説明をしてみたい。
第2回で取り上げるのは、第29回「江戸生蔦屋仇討(えどうまれつたやのあだうち)」で再登場を果たした松平定信(演:井上祐貴さん)だ。
バックナンバー:
NHK大河『べらぼう』復習帳 その1:徳川治貞 vs. 田沼意次
しかし蔦重の活躍した18世紀後半(江戸時代中~後期)は、これまで大河ドラマではあまり取り上げられておらず、戦国時代や幕末を描いた作品と比べて視聴者の側に時代背景の情報が少ない。そこで復習がてら、作品内で扱われる出来事の補足説明をしてみたい。
第2回で取り上げるのは、第29回「江戸生蔦屋仇討(えどうまれつたやのあだうち)」で再登場を果たした松平定信(演:井上祐貴さん)だ。
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NHK大河『べらぼう』復習帳 その1:徳川治貞 vs. 田沼意次
2つの狂歌にうたわれた正反対の松平定信
江戸後期、松平定信をめぐって世相を映す2つの狂歌が生まれた。1つは、新時代の到来を告げる期待の歌だ。
「田や沼や よごれた御世を 改めて 清く澄ませよ 白河の水」
「田や沼」とは田沼意次(演:渡辺謙さん)がもたらした「汚れた時代」を指し、「白河」藩主から老中に就いた松平定信に清廉な政治で世を洗い流し浄化してほしいという民衆の願いが込められていた(ご存じの通り、『べらぼう』では田沼は汚職政治家としては描かれていないが、当時の人々には定信は「清き白河」、田沼は「濁りの田沼」というイメージだった)。
しかしその数年後、人びとの口をついて出たのは、全く逆の心情を吐露する歌だった。
「白河の 清きに魚も すみかねて もとの濁りの 田沼恋しき」
清廉潔白で厳格すぎる定信の政治は、人びとにとって息苦しく、清流に魚がすめないようなものだった。むしろ「濁って」いても自由闊達(かったつ)だった田沼時代の方がましだった——そんな皮肉を込めた歌である。この2つの狂歌は、松平定信に対する2つの対極的なイメージを象徴している。彼は白河藩主として成功し、とくに1782年から88年にかけて起きた「天明の大飢饉」では適切な対策で餓死者を1人も出さなかったと伝えられる。
その実績を背景に、田沼意次失脚後の天明7年(1787年)に老中となり、やがて首座(筆頭老中)に就任した。民衆から田沼の「腐敗政治」を終わらせ社会を救う救世主として期待され、実際に寛政の改革で幕府の財政再建に成功する。だが手法が急進的で厳格すぎたため、やがて人びとに疎まれる存在となった。最終的にわずか6年後の1793年に老中の座を退いている。
果たして老中としての松平定信は、優れた改革者だったのか。それとも「反・田沼」を掲げるだけの反動主義者に過ぎなかったのか。
「田や沼や よごれた御世を 改めて 清く澄ませよ 白河の水」
「田や沼」とは田沼意次(演:渡辺謙さん)がもたらした「汚れた時代」を指し、「白河」藩主から老中に就いた松平定信に清廉な政治で世を洗い流し浄化してほしいという民衆の願いが込められていた(ご存じの通り、『べらぼう』では田沼は汚職政治家としては描かれていないが、当時の人々には定信は「清き白河」、田沼は「濁りの田沼」というイメージだった)。
しかしその数年後、人びとの口をついて出たのは、全く逆の心情を吐露する歌だった。
「白河の 清きに魚も すみかねて もとの濁りの 田沼恋しき」
清廉潔白で厳格すぎる定信の政治は、人びとにとって息苦しく、清流に魚がすめないようなものだった。むしろ「濁って」いても自由闊達(かったつ)だった田沼時代の方がましだった——そんな皮肉を込めた歌である。この2つの狂歌は、松平定信に対する2つの対極的なイメージを象徴している。彼は白河藩主として成功し、とくに1782年から88年にかけて起きた「天明の大飢饉」では適切な対策で餓死者を1人も出さなかったと伝えられる。
その実績を背景に、田沼意次失脚後の天明7年(1787年)に老中となり、やがて首座(筆頭老中)に就任した。民衆から田沼の「腐敗政治」を終わらせ社会を救う救世主として期待され、実際に寛政の改革で幕府の財政再建に成功する。だが手法が急進的で厳格すぎたため、やがて人びとに疎まれる存在となった。最終的にわずか6年後の1793年に老中の座を退いている。
果たして老中としての松平定信は、優れた改革者だったのか。それとも「反・田沼」を掲げるだけの反動主義者に過ぎなかったのか。
「最強」だが「不自由」な老中という立場
そもそも「老中」とは、どのような役職だったのだろうか。
老中は江戸幕府における最高職で、現代に例えるなら「内閣と上級官僚機構を一体化した存在」に近い。危機的な状況では老中の上に「大老」が臨時で置かれることもあるが、日常の国政を担った事実上の最高機関は老中会議であり、そのトップが松平定信の務めた筆頭老中だ。
老中の権限は広く、国家のあらゆる重要事項を掌握していた。
最重要の任務には、京都の朝廷との交渉、諸外国との外交、全国の大名の監視・統制があった。さらに勘定奉行や町奉行、寺社奉行といった主要役職を指揮監督し、幕府財政や大規模な普請(公共事業)を管理。加えて官僚機構の人事を掌握し、重要事件で最終判断を下す権限も持っていた。
ただし、その権力は意図的に分散されていた。老中は通常、有力な譜代大名から4〜5名が選ばれ、合議制の老中会議で方針を決定した 。また「月番制」と呼ばれる交代勤務があり、毎月1人の老中が訴状の受付や日常業務の窓口を担当した 。こうした仕組みにより、権力が特定の個人に集中することを防いでいた。
この仕組みの下では、1人の老中が急進的な改革を押し通すことは極めて難しかった。大規模な改革には、老中会議でのたくみな政治力や説得、そして合意形成が不可欠だった(『べらぼう』でも田沼意次が自らの政策を推し進めることに苦労し、人事を通じて周囲を味方で固める場面が描かれていた)。松平定信の行動を考える際も、この背景を踏まえる必要がある。
老中は江戸幕府における最高職で、現代に例えるなら「内閣と上級官僚機構を一体化した存在」に近い。危機的な状況では老中の上に「大老」が臨時で置かれることもあるが、日常の国政を担った事実上の最高機関は老中会議であり、そのトップが松平定信の務めた筆頭老中だ。
老中の権限は広く、国家のあらゆる重要事項を掌握していた。
最重要の任務には、京都の朝廷との交渉、諸外国との外交、全国の大名の監視・統制があった。さらに勘定奉行や町奉行、寺社奉行といった主要役職を指揮監督し、幕府財政や大規模な普請(公共事業)を管理。加えて官僚機構の人事を掌握し、重要事件で最終判断を下す権限も持っていた。
ただし、その権力は意図的に分散されていた。老中は通常、有力な譜代大名から4〜5名が選ばれ、合議制の老中会議で方針を決定した 。また「月番制」と呼ばれる交代勤務があり、毎月1人の老中が訴状の受付や日常業務の窓口を担当した 。こうした仕組みにより、権力が特定の個人に集中することを防いでいた。
この仕組みの下では、1人の老中が急進的な改革を押し通すことは極めて難しかった。大規模な改革には、老中会議でのたくみな政治力や説得、そして合意形成が不可欠だった(『べらぼう』でも田沼意次が自らの政策を推し進めることに苦労し、人事を通じて周囲を味方で固める場面が描かれていた)。松平定信の行動を考える際も、この背景を踏まえる必要がある。
定信ならではの不自由さ
また松平定信には、その経歴ゆえの特有の問題もあった。歴史学者で清泉女子大学の福留真紀教授は、著書『徳川将軍の側近たち』(文春新書)でこう説明している。
「これまで見てきたように、老中になるには、多くは、代々老中を輩出する家柄の出身で、経験を積みながら昇進コースを歩み、就任するものである。それに対して定信は、本来老中に就任することのない高い家柄であり、段階を踏むことなく、落下傘のように上から降りて来た異例の老中なのである。そして、降りた場所にはまだ田沼派の残党がいた」(福留真紀 『徳川将軍の側近たち』文春新書 P.197)
松平定信はその後、「田沼派の残党」を排し、自らの政策を進める体制を整えていくだが、そのうえで重要だった人物について、福留教授は次のように続けている。
「既存の組織に、外からやって来た人物が力を持つには、何が必要か。これまで見て来た時代の側近から見るならば、それは「将軍の絶大な信頼」であることに思い至るだろう。
しかし、定信には、それも難しかった。家斉がまだ15歳の少年であり、将軍権威としては弱かったからである。
(中略)
この時点で定信の後ろ盾となったのは、一橋治斉と御三家だった。彼らの働きかけにより、定信は、天明8年3月4日に将軍補佐に任じられた。これにより、ほかの老中とは一線を画す存在となり、政治権力を振るうお墨付きを与えられたことになる」(福留真紀『徳川将軍の側近たち』文春新書 P.197、198)
こうして定信は老中首座、さらに将軍補佐の地位を得たが、「強大な権力を持つ」とは言い難い状況にあった。少なくとも、誰の顔色もうかがわずに好きな政策を押し通す独裁者のような存在ではなかったわけだ。
「これまで見てきたように、老中になるには、多くは、代々老中を輩出する家柄の出身で、経験を積みながら昇進コースを歩み、就任するものである。それに対して定信は、本来老中に就任することのない高い家柄であり、段階を踏むことなく、落下傘のように上から降りて来た異例の老中なのである。そして、降りた場所にはまだ田沼派の残党がいた」(福留真紀 『徳川将軍の側近たち』文春新書 P.197)
松平定信はその後、「田沼派の残党」を排し、自らの政策を進める体制を整えていくだが、そのうえで重要だった人物について、福留教授は次のように続けている。
「既存の組織に、外からやって来た人物が力を持つには、何が必要か。これまで見て来た時代の側近から見るならば、それは「将軍の絶大な信頼」であることに思い至るだろう。
しかし、定信には、それも難しかった。家斉がまだ15歳の少年であり、将軍権威としては弱かったからである。
(中略)
この時点で定信の後ろ盾となったのは、一橋治斉と御三家だった。彼らの働きかけにより、定信は、天明8年3月4日に将軍補佐に任じられた。これにより、ほかの老中とは一線を画す存在となり、政治権力を振るうお墨付きを与えられたことになる」(福留真紀『徳川将軍の側近たち』文春新書 P.197、198)
こうして定信は老中首座、さらに将軍補佐の地位を得たが、「強大な権力を持つ」とは言い難い状況にあった。少なくとも、誰の顔色もうかがわずに好きな政策を押し通す独裁者のような存在ではなかったわけだ。

小林 啓倫
経営コンサルタント
1973年東京都生まれ、獨協大学外国語学部卒、筑波大学大学院修士課程修了。システムエンジニアとしてキャリアを積んだ後、米バブソン大学にてMBAを取得。その後外資系コンサルティングファーム、国内ベンチャー企業などで活動。著書に『FinTechが変える!金融×テクノロジーが生み出す新たなビジネス』(朝日新聞出版)、『IoTビジネスモデル革命』(朝日新聞出版)、訳書に『ソーシャル物理学』(アレックス・ペントランド著、草思社)、『シンギュラリティ大学が教える 飛躍する方法』(サリム・イスマイル著、日経BP)など多数。