江戸時代のメディア王・蔦重こと蔦屋重三郎(演:横浜流星さん)の生涯を追う今年の大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~(以下、べらぼう)』。さまざまな問題に機転と度胸で立ち向かう蔦重の姿が魅力となって、大人気を博している。
しかし蔦重の活躍した18世紀後半(江戸時代中期~後期)は、これまで大河ドラマではあまり取り上げられておらず、戦国時代や幕末を描いた作品と比べて視聴者の側に背景の情報が少ない。そこで復習がてら、作品内で扱われる出来事の補足説明をしてみたい。
第3回で取り上げるのは、蔦重も現代でいうところの「ストライサンド効果」を利用していた?という話だ。ストライサンド効果とは、情報を隠そうとするとかえって広まってしまう現象を指す言葉だが、蔦重はこれをどう利用したのだろうか。
バックナンバー:
NHK大河『べらぼう』復習帳 その1:徳川治貞 vs. 田沼意次
NHK大河『べらぼう』復習帳 その2:松平定信は改革者か、反動主義者か?
しかし蔦重の活躍した18世紀後半(江戸時代中期~後期)は、これまで大河ドラマではあまり取り上げられておらず、戦国時代や幕末を描いた作品と比べて視聴者の側に背景の情報が少ない。そこで復習がてら、作品内で扱われる出来事の補足説明をしてみたい。
第3回で取り上げるのは、蔦重も現代でいうところの「ストライサンド効果」を利用していた?という話だ。ストライサンド効果とは、情報を隠そうとするとかえって広まってしまう現象を指す言葉だが、蔦重はこれをどう利用したのだろうか。
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NHK大河『べらぼう』復習帳 その1:徳川治貞 vs. 田沼意次
NHK大河『べらぼう』復習帳 その2:松平定信は改革者か、反動主義者か?
身上半減、公開謝罪……大ピンチに立たされた蔦重
さまざまな窮地に立たされながらも、その度に持ち前の機転と度胸で切り抜けてきた蔦屋重三郎。しかし10月12日放送の第38回「地本問屋仲間事之始(じほんどんやなかまことのはじまり)」と第39回「白河の清きに住みかね身上半減」では、いよいよ最大のピンチに立たされる。
寛政3年(1791年)に山東京伝(演:古川雄大さん)の「教訓読本』」3作を出版したことで幕府の目に留まり、絶版命令に加えて連行されてしまう。
京伝が著したのは、「仕懸文庫(しかけぶんこ)」、「娼妓絹篩(しょうぎきぬぶるい)」、「青楼昼之世界錦之裏(せいろうひるのせかいにしきのうら)」という3つの洒落本だった。
いずれも吉原遊廓の生活を描く作品で、特に「青楼昼之世界錦之裏」は、通常は夜の情景を描く遊郭文学において、昼間の遊女屋の日常に焦点を当てた点がが革新的だった。露骨なエロティシズムや政治批判はなく、吉原の風俗や言葉遣い、客と遊女の感情を写実的に描写していた。
しかし、寛政の改革を主導した老中・松平定信(演:井上祐貴さん)の逆鱗(げきりん)に触れることになる。
定信は、京伝の作品を「堕落本」「風俗を乱す軽薄な書物」と断じた。吉原を描くこと自体が、定信の掲げる理念に反すると判断されたのだ。後にハーバード大学のデイビッド・アサートン助教授は、名のある京伝を見せしめにして、他の作家を威嚇する狙いがあったと分析している(「べらぼう」の中でも、定信が見せしめとしての処罰を多用していたと見られる描写がある)。実際、京伝は寛政元年(1789年)にも別作の挿絵で罰金を科されており、「常習犯」と見なされていた。
理由はどうであれ、蔦重も厳しい処分を受けることになる。寛政3年3月、幕府は次のような処分を下した。
蔦屋重三郎:身上半減(全資産の50%没収)。在庫の木版、現金、物的資産、運転資金の全てが対象となり、数年分の利益が吹き飛ぶほどの痛手だったという。蔦重は公開の場で謝罪し、「私が京伝に圧力をかけて作品を出版させた」と述べたという。
山東京伝:手鎖50日(自宅軟禁下での手錠拘束)。「堕落本」を執筆したことを認めさせられた。
その他:京伝の父が「急度叱り(きっとしかり、厳しくけん責される刑)」を受け、京伝の作品を承認した検閲官2人は罰金刑と江戸追放の処分を受けた。
身上半減。さすがの蔦重もこれでおしまい――になってしまってはドラマが終わる。もちろん彼はここから復活を遂げるわけだが、そのきっかけのひとつとなった「ある戦術」が、今回のトピックだ。しかしその前に、この戦術の伏線となった布石について触れておきたい。
寛政3年(1791年)に山東京伝(演:古川雄大さん)の「教訓読本』」3作を出版したことで幕府の目に留まり、絶版命令に加えて連行されてしまう。
京伝が著したのは、「仕懸文庫(しかけぶんこ)」、「娼妓絹篩(しょうぎきぬぶるい)」、「青楼昼之世界錦之裏(せいろうひるのせかいにしきのうら)」という3つの洒落本だった。
いずれも吉原遊廓の生活を描く作品で、特に「青楼昼之世界錦之裏」は、通常は夜の情景を描く遊郭文学において、昼間の遊女屋の日常に焦点を当てた点がが革新的だった。露骨なエロティシズムや政治批判はなく、吉原の風俗や言葉遣い、客と遊女の感情を写実的に描写していた。
しかし、寛政の改革を主導した老中・松平定信(演:井上祐貴さん)の逆鱗(げきりん)に触れることになる。
定信は、京伝の作品を「堕落本」「風俗を乱す軽薄な書物」と断じた。吉原を描くこと自体が、定信の掲げる理念に反すると判断されたのだ。後にハーバード大学のデイビッド・アサートン助教授は、名のある京伝を見せしめにして、他の作家を威嚇する狙いがあったと分析している(「べらぼう」の中でも、定信が見せしめとしての処罰を多用していたと見られる描写がある)。実際、京伝は寛政元年(1789年)にも別作の挿絵で罰金を科されており、「常習犯」と見なされていた。
理由はどうであれ、蔦重も厳しい処分を受けることになる。寛政3年3月、幕府は次のような処分を下した。
蔦屋重三郎:身上半減(全資産の50%没収)。在庫の木版、現金、物的資産、運転資金の全てが対象となり、数年分の利益が吹き飛ぶほどの痛手だったという。蔦重は公開の場で謝罪し、「私が京伝に圧力をかけて作品を出版させた」と述べたという。
山東京伝:手鎖50日(自宅軟禁下での手錠拘束)。「堕落本」を執筆したことを認めさせられた。
その他:京伝の父が「急度叱り(きっとしかり、厳しくけん責される刑)」を受け、京伝の作品を承認した検閲官2人は罰金刑と江戸追放の処分を受けた。
身上半減。さすがの蔦重もこれでおしまい――になってしまってはドラマが終わる。もちろん彼はここから復活を遂げるわけだが、そのきっかけのひとつとなった「ある戦術」が、今回のトピックだ。しかしその前に、この戦術の伏線となった布石について触れておきたい。
「名前で売れる」戯作者となった山東京伝
皆さんは、お気に入りの作家はいるだろうか。現代の日本でいえば、東野圭吾、村上春樹、宮部みゆき、湊かなえ……といった名前が頭に浮かぶのではないだろうか。彼らの新作なら、とりあえず手に取ってみようと思う人は多いだろう。つまり「名前で売れる」作家である。そして、そのはしりが、山東京伝だった。
日本文学研究者で中央大学の鈴木俊幸教授は、著書「新版 蔦屋重三郎」(平凡社)の中で、絵題簽(えだいせん:江戸時代の和本などの表紙に貼られた装飾的な題名札)の変化を取り上げつつ、「名前で売れる」京伝について次のように指摘している。
「草双紙において絵題簽は顔のごときものであった。絵草紙屋に並べられる際など、客の購買意欲に訴える大きな要件である。当然のことであろうが、黒本・青本の時代までは、その絵題簽に作者名の表記は見当たらない。黄表紙の時代になっても、天明2年の鶴喜版や天明三年の鱗形屋版などで行われたことはあったが、それは一時の試みに過ぎなかった。ところが寛政3年(1791年)になって作者名を絵題簽に明記したものが一時的に現れる。それは蔦重版と鶴喜版の黄表紙であった。以後慣習化するこの様式がこの年に始まったのは、また、蔦重・鶴喜両肆足並みをそろえたかのごとく同時に始まったのは偶然ではない。このことが先に述べた両書肆による京伝戯作の独占刊行と無関係であるはずがなく、主として「山東京伝」という名を広告し、その名をもって購買欲に働き掛けようとしたものであることの自明である」
(鈴木俊幸『新版 蔦屋重三郎』平凡社 p.238)
黒本・青本・黄表紙は草双紙の種類で、黒本は18世紀初期、青本は18世紀中期にそれぞれ流通し、その後に登場してきたのが黄表紙だ。そして「鶴喜版」とは、蔦重と同じ時代に活躍した地本問屋・鶴屋喜右衛門(演:風間俊介さん)が手がけた書物を指す。
このころ蔦重と鶴屋は、京伝作品を共同で独占するようになっていた。それをさらに売り込むために、作者名を表紙に記すという、それまで行われていなかった形式を採用したというわけだ。
現代の私たちには、出版社が独占契約の作家を表紙に出すのはごく当然に思える。だが鈴木教授が指摘するように、江戸時代の草双紙では一般的ではなかった。京伝の表紙に「京伝」と記す体裁は、蔦重と鶴屋の創意工夫を示すと同時に、山東京伝が「名前で売れる」作家となった証でもある。
日本文学研究者で中央大学の鈴木俊幸教授は、著書「新版 蔦屋重三郎」(平凡社)の中で、絵題簽(えだいせん:江戸時代の和本などの表紙に貼られた装飾的な題名札)の変化を取り上げつつ、「名前で売れる」京伝について次のように指摘している。
「草双紙において絵題簽は顔のごときものであった。絵草紙屋に並べられる際など、客の購買意欲に訴える大きな要件である。当然のことであろうが、黒本・青本の時代までは、その絵題簽に作者名の表記は見当たらない。黄表紙の時代になっても、天明2年の鶴喜版や天明三年の鱗形屋版などで行われたことはあったが、それは一時の試みに過ぎなかった。ところが寛政3年(1791年)になって作者名を絵題簽に明記したものが一時的に現れる。それは蔦重版と鶴喜版の黄表紙であった。以後慣習化するこの様式がこの年に始まったのは、また、蔦重・鶴喜両肆足並みをそろえたかのごとく同時に始まったのは偶然ではない。このことが先に述べた両書肆による京伝戯作の独占刊行と無関係であるはずがなく、主として「山東京伝」という名を広告し、その名をもって購買欲に働き掛けようとしたものであることの自明である」
(鈴木俊幸『新版 蔦屋重三郎』平凡社 p.238)
黒本・青本・黄表紙は草双紙の種類で、黒本は18世紀初期、青本は18世紀中期にそれぞれ流通し、その後に登場してきたのが黄表紙だ。そして「鶴喜版」とは、蔦重と同じ時代に活躍した地本問屋・鶴屋喜右衛門(演:風間俊介さん)が手がけた書物を指す。
このころ蔦重と鶴屋は、京伝作品を共同で独占するようになっていた。それをさらに売り込むために、作者名を表紙に記すという、それまで行われていなかった形式を採用したというわけだ。
現代の私たちには、出版社が独占契約の作家を表紙に出すのはごく当然に思える。だが鈴木教授が指摘するように、江戸時代の草双紙では一般的ではなかった。京伝の表紙に「京伝」と記す体裁は、蔦重と鶴屋の創意工夫を示すと同時に、山東京伝が「名前で売れる」作家となった証でもある。

小林 啓倫
経営コンサルタント
1973年東京都生まれ、獨協大学外国語学部卒、筑波大学大学院修士課程修了。システムエンジニアとしてキャリアを積んだ後、米バブソン大学にてMBAを取得。その後外資系コンサルティングファーム、国内ベンチャー企業などで活動。著書に『FinTechが変える!金融×テクノロジーが生み出す新たなビジネス』(朝日新聞出版)、『IoTビジネスモデル革命』(朝日新聞出版)、訳書に『ソーシャル物理学』(アレックス・ペントランド著、草思社)、『シンギュラリティ大学が教える 飛躍する方法』(サリム・イスマイル著、日経BP)など多数。












