NHK大河『べらぼう』復習帳 その2:松平定信は改革者か、反動主義者か?

小林 啓倫

Specialカルチャー映画・音楽

養子問題に隠された田沼への恨み

松平定信といえば、冒頭の狂歌や寛政の改革の印象から「反田沼」の人物として語られることが多い。実際、将軍の座に就いた家斉に提出した意見書では田沼意次を「敵」や「盗賊同然」と呼び、さらには「(田沼を)刺し殺そうとしていた」とまで記している。文字通りの意味かどうかはともかく、強い敵意を抱いていたのは確かだ。

その恨みの理由は『べらぼう』でも丁寧に描かれてきた。定信は少年時代、自らの意に反して養子に出され、その背後で田沼が糸を引いていたと考え、恨んでいたのである。

松平定信は8代将軍吉宗の孫で、宝暦8年(1759年)、田安徳川家当主・宗武の七男として生まれた。将来は田安家を継ぐと見られていたが、安永3年(1774年)、白河藩主・松平定邦が家格を高めるために定信を婿養子に望み、田沼意次の後押しもあって将軍・家治の命で養子入りが決まる。田安家は強く反対し、定信は養子決定後もしばらく同家の屋敷にとどまった。しかし同年、兄・治察が病死して田安家は跡継ぎを失う。定信は改めて養子解消と田安家への復帰を求めたが許されず、田安家は十数年にわたり当主不在となった。

研究者の間では、この一件で田沼意次が主導したというより、周囲に流されるままに協力したにすぎないという見方が有力だ。だが定信の目には、「黒幕」に映り、敵視する理由となったのだろう。

定信は「反田沼」を貫いたのか?

坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。松平定信は田沼失脚後、まるでバイデン前米大統領の政策を全て否定するトランプ大統領のように、田沼の政策を片端から覆したかと思いきや、実際はそうでもなかった。

前回の復習帳では、一見すると独自色が強いとされる田沼意次の政策にも、過去の徳川政策との連続性があることを説明した。そして松平定信の政策にも、田沼時代の施策を維持したり、むしろ推し進めたりする面があると近年は評価されている。

例えば『べらぼう』でも描かれた、田沼が整備した「株仲間」(幕府公認の商人組合)は、定信もほとんど廃止せず、物価調整や幕府財政の安定に寄与したと評価されている。

また蝦夷地政策(こちらもドラマ内で数話にわたり描かれ、誰袖花魁役の福原遥さんや、田沼意知役の宮沢氷魚さん、松前道廣役のえなりかずきさんらの演技がネット上でも大きな話題となった)についても、田沼の開発計画が幕府内で継承され、定信も支持した。定信退任後には、1799年に幕府が東蝦夷地を直轄化して開発に着手している。

なぜ松平定信は、憎き田沼の政策を全て切り捨てなかったのか。本当のところは本人に聞いてみないと分からないが、表面的には「田沼を刺し殺そうとした」とまで書くほど強烈な「反田沼」を掲げながら、その裏では「坊主憎けりゃ」のような心境には決して陥らなかったのだろう。老中就任後もしばらくは田沼派の官僚も残っており、定信は自らの権力の限界をわきまえ、実利や現実を見極めて行動できる人物だったのではないか。

町人文化を取り締まり、町人文化を愛した定信

松平定信といえばもうひとつ、冒頭の狂歌でもうたわれていたように、民衆に対しても厳しい姿勢を取ったというイメージがある。せっかく蔦重ら町民たちが頑張って築き上げた、豊かな江戸の文化を、弾圧にも近いやり方で取り締まったという姿だ。

実際、松平定信は寛政の改革で町民文化に対する厳格な統制政策を行った。田沼時代に栄えた自由で華やかな町民文化を、風紀の乱れや社会秩序の崩壊の要因と見なしたのである。

具体的には出版統制令を出し、洒落本(主に遊郭を舞台にした恋愛・風俗描写本)や黄表紙(庶民向けの絵入り娯楽本)などを厳しく取り締まった。北尾政演(演:古川雄大さん)や恋川春町(演:岡山天音さん)といった戯作者、さらには版元である蔦屋重三郎まで処罰の対象となった。また混浴の禁止や髪結いの規制など風俗取締りを強化し、歌舞伎や寄席といった興行にも制限を加えている。

さらに、奢侈禁止令(しゃしきんしれい)を出し、町人の華美な服装や贅沢な生活を禁じて質素倹約を強制した。これらの政策は朱子学的な道徳観に基づき、武士の気風を正し、農民を農村に留めることを目的としていたが、結果的に江戸文化の活力を奪い、町民からの反発を招いた。着物の表は地味でも裏地に派手な柄を仕込む「裏勝り(うらまさり)」と呼ばれる工夫が発展したのもこの頃といわれている。幕府の権威回復を狙った定信の文化統制は、逆効果となってしまったわけだ。

では松平定信は町人文化がさぞかし嫌いだったのだろうと思いきや、実は全く異なる顔も垣間見せている。

例えば彼は、軽薄と見なされた洒落本や黄表紙といった出版物を統制する一方で、戯作や浮世絵を好んで収集していたという(この点は『べらぼう』でも描かれていた)。さらに若いころには、自ら『大名かたぎ』という戯作(庶民向けの娯楽性の高い文学作品)を執筆している。これは白河藩に養子に入ったばかりの17〜18歳の頃に書かれたもので、愚かな若殿様が失敗を繰り返しながら成長する姿をユーモラスに描いたものだった。加えて老中を退いた後には、絵巻物の出版を企画し、かつて処罰した北尾政演らに詞書(解説文)を依頼している。

つまり定信は、自らの信念や趣味・嗜好と政策とを切り分けて考えていた節がある。

その態度は政策面にも表れている。1792年、仙台藩士・林子平が『海国兵談』を著した。日本が四方を海に囲まれていながら海岸が無防備だと幕府を批判し、ロシアなど外国勢力への備えとして海防の重要性を説いた書である。定信も北方防備や洋式軍備の強化を進めており、子平の提言に沿った施策を構想していた。ところが定信は『海国兵談』を出版禁止とし、子平には蟄居(ちっきょ、外出を禁じて謹慎させること)を命じている。その理由は内容の是非ではなく、時期の問題だった(1971年の異国船打払令の直後で、ロシアによる侵略の噂が広まり社会不安が高まっていた)とされる。ここでも定信の行動は、必ずしも彼の内面をそのまま映したものではなかった。

理想と現実に揺れた生涯

松平定信は最終的に、老中就任を支えた一橋治済(演:生田斗真さん)と対立し、表向きは辞任という形で、実際には権力闘争の末に6年で老中の座を追われた。嫌っていた田沼が14年(「老中格」という老中に準ずる役職に就いていた期間も含めれば17年)も在任したことを思えば、定信の無念は大きかったに違いない。

彼の生涯は、理想と現実のはざまで揺れ続けたといえるだろう。田安家から白河藩に養子に出されたのも本人の意志に反するものだった。もし田安家にとどまっていれば将軍になった可能性もあるとされ、老中という立場に忸怩(じくじ)たる思いを抱いていたのではないか。そうした思いこそが、寛政の改革を推し進めるパワーとなったのかもしれない。

しかしその思いは田沼意次やその残党に阻まれ、彼らを追いやった後も、社会情勢や国際情勢、さらに後ろ盾である一橋治済との対立といった現実が立ちはだかった。定信はその中で「やりたいこと」と「できること」のバランスに苦心していたのだろう。『べらぼう』では今も「復讐に燃える若者」として描かれているが、やがて彼も田沼意次と同じように苦悶(くもん)の表情を浮かべる場面が増えていくはずだ。せめて老中辞任後、絵巻物の出版を企画する頃には、蔦重らと笑い合う姿が見られれば良いのだが。
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小林 啓倫

経営コンサルタント
1973年東京都生まれ、獨協大学外国語学部卒、筑波大学大学院修士課程修了。システムエンジニアとしてキャリアを積んだ後、米バブソン大学にてMBAを取得。その後外資系コンサルティングファーム、国内ベンチャー企業などで活動。著書に『FinTechが変える!金融×テクノロジーが生み出す新たなビジネス』(朝日新聞出版)、『IoTビジネスモデル革命』(朝日新聞出版)、訳書に『ソーシャル物理学』(アレックス・ペントランド著、草思社)、『シンギュラリティ大学が教える 飛躍する方法』(サリム・イスマイル著、日経BP)など多数。

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