松平定信失脚後も「寛政の改革」は続いた?
こうして治済は定信への支持をやめ、彼を追放することにしたわけだが、この政変に周囲の人びと、特に「寛政の改革」一派はどう反応したのだろうか。
前述の通り「べらぼう」では、松平信明と本多忠籌が政策上の対立から定信を裏切ったように描かれている。歴史学の研究を見ても、定信への権力集中に対して幕政内で批判や権力闘争の動きがあったのではないか、あるいは定信一派の間に政策・感情面での不和が生じていたのではないかとする説がある。決して松平定信のイエスマンばかりだったわけではなさそうだ。
とはいえ、定信失脚後に「寛政の改革」期の政策が全て覆ったわけではない。例えば緊縮財政の基本方針は維持され、幕府財政は定信時代に引き続き黒字を維持し、備蓄金も積み増しされた。また定信は「べらぼう」でも描かれているように朱子学を重んじたが、寛政2年(1790年)に打ち出した「寛政異学の禁」(儒学の学問所で朱子学以外の講義を禁じる方針)はその後も継承され、幕政の基本路線となった。出版統制も引き継がれ、特にロシアの南下など対外的な緊張の高まりを背景に、むしろ定信後の時代の方が統制が強まっていく。
このように「寛政の改革路線」とでも呼ぶべき施策は、定信が幕政を去った後も継続しており、実際に彼の後を継いだ松平信明・本多忠籌らは「寛政の遺老」と呼ばれている。
つまり治済・家斉親子は、松平定信的な政策は許容していたわけだ。裏を返せば、彼らの関心は自らの権力の維持・強化だけで、日本という国のかじ取りには興味がなかったのかもしれない。
では、その治済・家斉親子による権力拡大の動きに対して、かつての定信一派はどう反応したのか。定信の辞任後、老中筆頭の座に就いた松平信明の動きを追ってみよう。
前述の通り「べらぼう」では、松平信明と本多忠籌が政策上の対立から定信を裏切ったように描かれている。歴史学の研究を見ても、定信への権力集中に対して幕政内で批判や権力闘争の動きがあったのではないか、あるいは定信一派の間に政策・感情面での不和が生じていたのではないかとする説がある。決して松平定信のイエスマンばかりだったわけではなさそうだ。
とはいえ、定信失脚後に「寛政の改革」期の政策が全て覆ったわけではない。例えば緊縮財政の基本方針は維持され、幕府財政は定信時代に引き続き黒字を維持し、備蓄金も積み増しされた。また定信は「べらぼう」でも描かれているように朱子学を重んじたが、寛政2年(1790年)に打ち出した「寛政異学の禁」(儒学の学問所で朱子学以外の講義を禁じる方針)はその後も継承され、幕政の基本路線となった。出版統制も引き継がれ、特にロシアの南下など対外的な緊張の高まりを背景に、むしろ定信後の時代の方が統制が強まっていく。
このように「寛政の改革路線」とでも呼ぶべき施策は、定信が幕政を去った後も継続しており、実際に彼の後を継いだ松平信明・本多忠籌らは「寛政の遺老」と呼ばれている。
つまり治済・家斉親子は、松平定信的な政策は許容していたわけだ。裏を返せば、彼らの関心は自らの権力の維持・強化だけで、日本という国のかじ取りには興味がなかったのかもしれない。
では、その治済・家斉親子による権力拡大の動きに対して、かつての定信一派はどう反応したのか。定信の辞任後、老中筆頭の座に就いた松平信明の動きを追ってみよう。
松平信明と一橋治済の権力闘争
松平信明は定信の後を継いだとはいえ、決して治済・家斉らに迎合する人物ではなかったようだ。清泉女子大学の福留真紀教授は、著書『徳川将軍の側近たち』(文春新書)の中で次のように説明している。
「将軍に対しても、堂々と物を言ったらしい。ある時、家斉が、一橋家の庭の蘇鉄(ソテツ)を本丸の庭へ取り寄せて、小姓と小納戸へ植え替えを命じたところ、信明がそれを止めた。世間では、定信の考えを聞かずに将軍へ諫言(かんげん)をするのは、信明だけであると評判が良かったという」(福留真紀 『徳川将軍の側近たち』文春新書 P.210)
ほかにも、彼の清廉潔白さをうかがわせるエピソードがあり、「治済・家斉に取り入って波風を立てずに済ませよう」と考えるようなタイプではない。
しかし定信が半ば見せしめのように首を切られた後は、さすがに彼らに盾突くのは難しかったのかもしれない。寛政11年(1799年)、治済は御三卿の1つである田安家が当主不在になると、自らの五男・一橋斉匡を田安家当主に据えるという強引な策に出る。つまり治済が、御三卿のうち一橋家と田安家の二家を支配下に置くことになったわけだ。信明としては、幕府の秩序を揺るがしかねないこうした動きを快く思わなかったと考えられるが、表立った対抗策は取っていない。
そして決定的な出来事が起きる。再び『徳川将軍の側近たち』(文春新書)から引用したい。
「そして、賄いの黒野源蔵が親しい小納戸から聞いたことによれば、信明は国家の「柱石」であり、退職させられたのは、家斉から治済を二丸へ入れるよう上意があったものの、信明らが二度も承知しなかったからだという」(福留真紀 『徳川将軍の側近たち』文春新書 P.213)
「二丸(二の丸)」とは、江戸城(あるいは近世城郭)の中核部を取り巻く「第2の防衛区画」で、将軍家や城主の中枢に近い重要区域だ。そしてそこに「入る」とは、「将軍に準じる権威を得て、政治的主導権を握る」ことを意味する。治済はその地位を求めたが、認めてしまえば、ますます彼の権力を強大にさせることになる。さすがにそれは、ということで、信明もこの申し出を2度にわたって拒否したわけだ。
当然ながら治済はこれに激怒。対立は決定的なものとなり、享和3年(1803年)、信明は老中の座を解かれる(表向きの理由は病気とされた)。要するに、信明もまた定信にとっての「大御所問題」と似たような構図で治済・家斉親子と対立し、首を切られてしまったわけだ。
事実、その後には興味深い展開が待っていた。ロシア使節のレザノフの来航(1804年)などで対外的な危機意識が高まると、後任の老中たちは対外政策の経験が乏しく、この難局を乗り切れないかもしれないという理由から、文化3年(1806年)5月25日、信明が家斉の許しを得て老中首座として異例の復職を果たす。復職した信明は、北方防衛体制の強化、江戸湾防備の整備、外国知識吸収機関の設立などを行い、後の開国期の基板となった。
ただし、それは再び彼の元に権力が集中しないよう配慮された上での人事だった。まさに治済・家斉と定信・信明の対立は、政策上の意見の不一致というより、権力闘争が原因であったといえるだろう。
「将軍に対しても、堂々と物を言ったらしい。ある時、家斉が、一橋家の庭の蘇鉄(ソテツ)を本丸の庭へ取り寄せて、小姓と小納戸へ植え替えを命じたところ、信明がそれを止めた。世間では、定信の考えを聞かずに将軍へ諫言(かんげん)をするのは、信明だけであると評判が良かったという」(福留真紀 『徳川将軍の側近たち』文春新書 P.210)
ほかにも、彼の清廉潔白さをうかがわせるエピソードがあり、「治済・家斉に取り入って波風を立てずに済ませよう」と考えるようなタイプではない。
しかし定信が半ば見せしめのように首を切られた後は、さすがに彼らに盾突くのは難しかったのかもしれない。寛政11年(1799年)、治済は御三卿の1つである田安家が当主不在になると、自らの五男・一橋斉匡を田安家当主に据えるという強引な策に出る。つまり治済が、御三卿のうち一橋家と田安家の二家を支配下に置くことになったわけだ。信明としては、幕府の秩序を揺るがしかねないこうした動きを快く思わなかったと考えられるが、表立った対抗策は取っていない。
そして決定的な出来事が起きる。再び『徳川将軍の側近たち』(文春新書)から引用したい。
「そして、賄いの黒野源蔵が親しい小納戸から聞いたことによれば、信明は国家の「柱石」であり、退職させられたのは、家斉から治済を二丸へ入れるよう上意があったものの、信明らが二度も承知しなかったからだという」(福留真紀 『徳川将軍の側近たち』文春新書 P.213)
「二丸(二の丸)」とは、江戸城(あるいは近世城郭)の中核部を取り巻く「第2の防衛区画」で、将軍家や城主の中枢に近い重要区域だ。そしてそこに「入る」とは、「将軍に準じる権威を得て、政治的主導権を握る」ことを意味する。治済はその地位を求めたが、認めてしまえば、ますます彼の権力を強大にさせることになる。さすがにそれは、ということで、信明もこの申し出を2度にわたって拒否したわけだ。
当然ながら治済はこれに激怒。対立は決定的なものとなり、享和3年(1803年)、信明は老中の座を解かれる(表向きの理由は病気とされた)。要するに、信明もまた定信にとっての「大御所問題」と似たような構図で治済・家斉親子と対立し、首を切られてしまったわけだ。
事実、その後には興味深い展開が待っていた。ロシア使節のレザノフの来航(1804年)などで対外的な危機意識が高まると、後任の老中たちは対外政策の経験が乏しく、この難局を乗り切れないかもしれないという理由から、文化3年(1806年)5月25日、信明が家斉の許しを得て老中首座として異例の復職を果たす。復職した信明は、北方防衛体制の強化、江戸湾防備の整備、外国知識吸収機関の設立などを行い、後の開国期の基板となった。
ただし、それは再び彼の元に権力が集中しないよう配慮された上での人事だった。まさに治済・家斉と定信・信明の対立は、政策上の意見の不一致というより、権力闘争が原因であったといえるだろう。
治済・家斉親子は人生を謳歌したようだが……?
さて、こうして意次・定信・信明と次々に邪魔者を追いやることに成功した治済は、文政10年(1827年)に76歳で亡くなるまで、大いに権勢を振るったという(77歳まで生きたという説もある)。家斉はその影響下にあり自由な統治はできなかったようだが、それでも天保12年(1841年)まで生き、およそ50年間にわたり将軍の座にあった。これは歴代の徳川将軍の中で最長の在任期間であり、2位の徳川吉宗(8代将軍)の約29年間を大きく上回っている。子供の数も53人(一説では55人)で、同じく徳川将軍の中でトップ。長生きすれば良いというものではないにせよ、特に目立った事件もなく、人生を謳歌したといえるだろう。
こうして見ると、治済・家斉親子が権力闘争に完全勝利した、ということになる。もちろん、どちらの側が善でどちらが悪かと単純に決めつけることはできないが、「べらぼう」での治済・家斉親子の悪役的な描写を見ると、釈然としない思いがするのも正直なところだ。「べらぼう」は蔦屋重三郎の生涯を追う物語なので、治済・家斉のその後を描くことはないかもしれないが、彼らの「勝ち逃げ」という印象のまま終わるのかどうか、残り少ない回を楽しみにしたい。
こうして見ると、治済・家斉親子が権力闘争に完全勝利した、ということになる。もちろん、どちらの側が善でどちらが悪かと単純に決めつけることはできないが、「べらぼう」での治済・家斉親子の悪役的な描写を見ると、釈然としない思いがするのも正直なところだ。「べらぼう」は蔦屋重三郎の生涯を追う物語なので、治済・家斉のその後を描くことはないかもしれないが、彼らの「勝ち逃げ」という印象のまま終わるのかどうか、残り少ない回を楽しみにしたい。

小林 啓倫
経営コンサルタント
1973年東京都生まれ、獨協大学外国語学部卒、筑波大学大学院修士課程修了。システムエンジニアとしてキャリアを積んだ後、米バブソン大学にてMBAを取得。その後外資系コンサルティングファーム、国内ベンチャー企業などで活動。著書に『FinTechが変える!金融×テクノロジーが生み出す新たなビジネス』(朝日新聞出版)、『IoTビジネスモデル革命』(朝日新聞出版)、訳書に『ソーシャル物理学』(アレックス・ペントランド著、草思社)、『シンギュラリティ大学が教える 飛躍する方法』(サリム・イスマイル著、日経BP)など多数。













