NHK大河『べらぼう』復習帳 最終回:何が違った?歌麿と北斎、蔦重の死後に明暗を分けた2人の絵師

小林 啓倫

Specialカルチャー映画・音楽

蔦重ならボツにしていたはずの企画で……

蔦重の死後、歌麿の身に何が起きたのか。順を追って見ていこう。

「べらぼう」でも描かれているように、歌麿は蔦重の存命中から、蔦重が営む耕書堂以外の版元とも仕事をしていた。蔦重の死後もその流れは続き、歌麿はさまざまな版元と組んで作品を発表する。売れっ子だった歌麿の元には注文が殺到し、それが結果的に仇(あだ)となった。版元の求めに応じて作品を乱作した結果、絵の質や品格は低下し、古典的な格調が薄れる一方で、官能的・退廃的な美へ傾いていく。

例えば蔦重の死から5年後の享和2年(1802年)、歌麿は鶴屋金助という版元から「教訓親の目鑑」というシリーズを刊行している(「べらぼう」で風間俊介さんが演じる鶴屋喜右衛門とは別人)。これは「こんな娘に育てるな」という教訓的文章を添えた絵(酒に溺れる女の姿など)なのだが、実際にはかなり官能性の強いポーズやしぐさが多く、「道徳」を口実に幕府の取り締まりをかわそうとしたものと考えられている。

そして文化元年(1804年)、歌麿は「太閤五妻洛東遊観之図」を発表する。豊臣秀吉が晩年に催したうたげ「醍醐の花見」をモチーフにした作品だが、これが彼にとって命取りとなった。

これは、秀吉が美しい妻や側室たちと花見を楽しむ場面を描いた絢爛豪華な作品だった。 豪奢(ごうしゃ)とはいえ、現代の私たちからすればただの歴史画だ。しかし徳川幕府にとって「秀吉」はタブー中のタブー。しかも当時は、11代将軍・家斉の大奥での乱脈ぶりが噂されていた時期で、この絵は「将軍への当てこすり」と解釈されたのである。

蔦重が生きていれば、間違いなくこの企画をボツにしていただろう。しかし彼亡き後、超売れっ子絵師の歌麿を制止する者はいなかった。

結局、歌麿は手鎖50日の刑を受けることになった。両手を鎖でつながれたまま50日を過ごす厳しい刑罰だ。この一件は、歌麿を「幕府に対する挑発的な絵師」として印象付けただけでなく、当人の制作意欲や健康にも打撃を与えたという指摘もある。事実、この事件の以降、華やかな作品は激減し、短冊や小作品が中心となる。

手鎖の刑が歌麿の精神的な打撃だったのか、肉体的な負担だったのかはわからない。いずれにせよ彼の活動のいきおいは衰え、刑から2年後の文化3年(1806年)、歌麿はこの世を去った。54歳だった。

Kitagawa Utamaro - A View of the Pleasures of the Taiko and His Five Wives at Rakutō - Japan - Edo period (1615–1868) - The Metropolitan Museum of Art

喜多川歌麿「太閤五妻洛東遊観之図」

歌麿とは対照的な人生を送った葛飾北斎

歌麿とは対照的に、蔦重の死後に絵師として大きく花開いた人物がいる。葛飾北斎だ。彼がどのような道を歩んだのか、同じくその足跡をたどってみよう。

蔦重と北斎の初仕事は、一般に寛政2年(1790年)ごろとされる。当時の北斎は勝川派の若手で(当初は「勝川春朗」を名乗っていた)、蔦重は黄表紙・洒落本・錦絵の有力版元として多くの絵師を起用していた。北斎が蔦重の企画に確実に参加したのは、黄表紙や狂歌本の挿絵で、寛政初期から蔦重が挿絵絵師として北斎を用い始めたというのが定説である。

とはいえ、北斎が「耕書堂専属」のような形で大々的に売り出されたわけではない。当時、蔦重の看板絵師は喜多川歌麿らで、北斎はその陰で地道に腕を磨く若手絵師の1人に過ぎなかった。ただ、蔦重は絵師の才能を見抜き、黄表紙・洒落本・錦絵などの企画に柔軟に起用することで彼らを育てる手腕を持っていた。北斎もまた、そうした機会の中で経験を積んだと考えられる。

寛政9年(1797年)の蔦重の死は、葛飾北斎の画業に大きな転機をもたらした。これを境に北斎は、勝川派など特定の師系や版元に依存する姿勢から離れ、「宗理」「為一」など数多くの画号を使い分けながら、自らの画風を模索し始める。商業的な浮世絵や版本挿絵の枠を超えた、新しい表現への挑戦の始まりだった。

北斎、「富嶽三十六景」を完成す

蔦重の死から5年を経て19世紀に入ると、北斎は読本(絵入りの小説)の挿絵に力を注ぐようになる。滝沢馬琴らとの協業で培われた画面構成力は、後に多様なジャンルへ展開する際の土台となった。さらに1810年代(文化年間)には、「北斎漫画」の刊行を開始。人物、動植物、建築物など森羅万象を描き尽くすその姿勢は、北斎の観察眼と筆力を大きく飛躍させた。

北斎が風景画や名所絵に本格的に取り組み、浮世絵の歴史を塗り替えるのは、こうした長い修練を経た晩年のことだ。70歳を超えた天保元年(1830年)ごろから制作が始まった代表作「冨嶽三十六景」は、天保2年(1831年)ごろに初版が刊行されたとされる。

この時期の北斎は、長年培った絵技に加え、輸入され始めた化学顔料「ベロ藍(プルシアンブルー)」を取り入れ、従来の浮世絵にはなかった鮮烈な「青」と、「ダイナミックな構図」を実現した。「波」「富士」「海と山」といった壮大な自然描写は、美人画や役者絵が中心だった浮世絵界に革命をもたらし、その可能性を大きく広げたとされている。

こうして北斎の歩みを振り返ると、彼は蔦屋重三郎の元で市場の要請に応える「商業絵師」として出発し、重三郎の死後は自らの描きたい世界を追求する「芸術家」へと進化を遂げたといえる。晩年に取り組んだ風景画は、長年培った技量と、老いてなお衰えぬ新境地への関心が結実した、まさに画業の集大成だった。

国立文化財機構所蔵品統合検索システム

葛飾北斎「冨嶽三十六景・凱風快晴」

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小林 啓倫

経営コンサルタント
1973年東京都生まれ、獨協大学外国語学部卒、筑波大学大学院修士課程修了。システムエンジニアとしてキャリアを積んだ後、米バブソン大学にてMBAを取得。その後外資系コンサルティングファーム、国内ベンチャー企業などで活動。著書に『FinTechが変える!金融×テクノロジーが生み出す新たなビジネス』(朝日新聞出版)、『IoTビジネスモデル革命』(朝日新聞出版)、訳書に『ソーシャル物理学』(アレックス・ペントランド著、草思社)、『シンギュラリティ大学が教える 飛躍する方法』(サリム・イスマイル著、日経BP)など多数。

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