「西は示威、東が決戦」を秀吉は読んでいたか
これは偶然だったのだろうか。それとも、最初からそう設計されていたのか。
「二手に分かれる」構図そのものは、間違いなく秀吉の設計である。天正15年正月に本隊の動員をかけた際、秀長を日向口、自らを肥後口の総大将とし、それぞれの担当大名を割り当てたとされている。前年から黒田孝高らを豊前に先行させ、九州の勢力図を偵察・調略させていたことも含め、周到に準備された2方面作戦だった。
ただし、島津の主力がどちらのルートで迎え撃つかは、相手の判断である。ここで注目したいのは、前年に島津軍が北上して戦っていたのが豊後方面だったという事実だ。彼らが本国へ引き揚げる道筋は日向側であり、東ルートで主力にぶつかる可能性が高いことは、秀吉側もかなりの確度で予想していたと考えるのが自然だろう。秀長軍に毛利・小早川という最大級の戦力を配したのは、その予想の表れと見ることができる。
もっとも、「豊臣兄弟が2人で計画した」といえるほど、秀長の関与を示す史料は残っていない。計画の発令はすべて秀吉名義であり、秀長がどこまで立案に加わったかは不明である。史実としていえるのは「秀吉が設計し、秀長が実行した分業」までであり、それ以上は推察の領域に入る。
「二手に分かれる」構図そのものは、間違いなく秀吉の設計である。天正15年正月に本隊の動員をかけた際、秀長を日向口、自らを肥後口の総大将とし、それぞれの担当大名を割り当てたとされている。前年から黒田孝高らを豊前に先行させ、九州の勢力図を偵察・調略させていたことも含め、周到に準備された2方面作戦だった。
ただし、島津の主力がどちらのルートで迎え撃つかは、相手の判断である。ここで注目したいのは、前年に島津軍が北上して戦っていたのが豊後方面だったという事実だ。彼らが本国へ引き揚げる道筋は日向側であり、東ルートで主力にぶつかる可能性が高いことは、秀吉側もかなりの確度で予想していたと考えるのが自然だろう。秀長軍に毛利・小早川という最大級の戦力を配したのは、その予想の表れと見ることができる。
もっとも、「豊臣兄弟が2人で計画した」といえるほど、秀長の関与を示す史料は残っていない。計画の発令はすべて秀吉名義であり、秀長がどこまで立案に加わったかは不明である。史実としていえるのは「秀吉が設計し、秀長が実行した分業」までであり、それ以上は推察の領域に入る。
秀長にとっての九州平定
では、この分業は秀長にとって何を意味していたのだろうか。
秀長が「公儀」の顔として認識されていたことを示す有名な逸話がある。天正14年(1586年)4月、大坂城を訪れた大友宗麟に対し、秀長が「内々の儀は千利休(演・吉岡秀隆さん)に、公儀のことは自分に相談せよ」と語り、心配は無用だと励ましたというものだ。宗麟自身が国元に送った書状に基づく話であり、信頼性は高い。秀長は九州平定の1年前から、大友氏に対する政権の窓口を自任していたのである。
その言葉を、秀長は戦場で実証した。当時、秀長は47歳前後。前々年の紀州・四国平定の功で大和・紀伊・和泉に100万石余(米価ベースで単純換算すれば、現代の感覚で数百億円規模の年間収入)を与えられていた秀長は、豊臣政権の軍事力の中核であり、その全戦力をこの決戦に投じたことになる。根白坂の勝利は、戸次川で傷ついた豊臣の権威を回復し、島津を降伏に追い込んだ。義久に続いて弟の義弘・家久も降伏したが、その交渉は秀長を介して行われたと伝わる。戦後、島津家の所領は薩摩・大隅と日向の一部にまで削減されたが、秀長は以後もしばらくは島津氏に対する政権側の窓口の1人であり続けた。
そして帰陣後の同年8月、秀長は従二位権大納言に昇進し、「大和大納言」と呼ばれるようになる。九州平定の功は、その契機となるものだった。
また九州平定は秀長にとって、「天下人」たる兄・秀吉をどう支えるかを考えるモデルケースともなったのではないだろうか。いまや兄は関白となり、これまで以上に、ぶざまな失敗をさせるわけにはいかない。ならば危険な戦いや、やっかいな交渉事はすべて自分が引き受け、兄には「花道」を歩いていてもらおう――それが兄から強いられたものか、自発的に引き受けたものかは分からないが、九州平定が成功したことで、秀長はこの役割を演じることに自信を深めたに違いない。
華やかな勝利は兄のものになった。だが、その勝利を可能にした決戦を引き受け、勝ち、戦後の面倒な交渉まで抱えたのは弟だった。九州平定は豊臣兄弟にとって、天下統一を目前にした戦いであったと同時に、「豊臣政権」をどう運営するかという、今後のあり方を確立させた重要な出来事だったといえるだろう。
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小林 啓倫
経営コンサルタント
1973年東京都生まれ、獨協大学外国語学部卒、筑波大学大学院修士課程修了。システムエンジニアとしてキャリアを積んだ後、米バブソン大学にてMBAを取得。その後外資系コンサルティングファーム、国内ベンチャー企業などで活動。著書に『FinTechが変える!金融×テクノロジーが生み出す新たなビジネス』(朝日新聞出版)、『IoTビジネスモデル革命』(朝日新聞出版)、訳書に『ソーシャル物理学』(アレックス・ペントランド著、草思社)、『シンギュラリティ大学が教える 飛躍する方法』(サリム・イスマイル著、日経BP)など多数。













