NHK大河『べらぼう』復習帳 その3:「ストライサンド効果」をマーケティングに利用した蔦重

小林 啓倫

Specialカルチャー映画・音楽

京伝先生の新作はもう読めない……?

そんな売れっ子作家となった京伝が、前述した天明3年の「みせしめ」で処罰を受けたわけだ。すると江戸の町に「京伝は二度と執筆活動をしない」という噂が流れたという。「べらぼう」でも描かれたように、それ以前に松平定信からにらまれた朋誠堂喜三二(演:尾美としのりさん)と恋川春町(演:倉橋格さん)は、実際に筆を折っている。「次は京伝か」と皆が考えてもおかしくない。

ただ、そんな噂が本当にあったのか、つまり「その噂は、自然発生だったのか」は定かではない。というのも、処罰後の寛政3年に出版された京伝の「箱入娘面屋人魚(はこいりむすめ めんや にんぎょう)」の序文に、気になる一節があるのだ。

「まじめなる口上」と題した序文ページに「板元 蔦唐丸」として描かれた初代・蔦屋重三郎 出典:東京都立図書館 デジタルアーカイブ 箱入娘面屋人魚(はこいりむすめ めんや にんぎょう)

以下の文章は、東京都立図書館の江戸東京デジタルミュージアムに記されているものである。

「作者の京伝は寛政元年(1789年)、画工を務めた『黒白水鏡』で取締りにかかり過料を申しつけられたため、戯作に関わるのをやめるつもりだったようです。しかし、重三郎が店が急に衰微するゆえ今年だけでも書いてほしいと懇請した結果、長年のつきあいに免じて翻意し、洒落本と黄表紙を書いてくれたという事情が述べられています。重三郎が裃姿でかしこまっているのはそのためでしょう。蔦屋の口上の形ですが、書いたのは京伝本人ということです」(東京都立図書館 江戸東京デジタルミュージアム「箱入娘面屋人魚」解説)

要するに「京伝先生は執筆をやめるつもりだったが、私(蔦重)が懇願して書いてもらった作品だ」と京伝自身が明かしている。こんな文章をわざわざ載せているのは、京伝の新作が「もう読めなくなるかもしれない」という空気を自らあおる狙いがあったのではないか、とも解釈されている。

噂がどのように生まれたのかはともかく、名前で売れる人気作家・京伝の作品が読めなくなるかもしれない、という不安は江戸の人々の間で流れていたのだろう。そして蔦重はその不安を利用し、逆に京伝作品をプロモーションするという手に打って出た。

ただ、処罰対象となった3冊の黄表紙はさすがに出版せず、過去の京伝作品の人気作を再販した。再販は処罰直後に始まり、人びとの関心が最高潮の時期を狙った戦略的タイミングといえる。

「京伝先生は二度と執筆しないらしい」という噂により希少性が生まれ、購買意欲が刺激されていたわけである。

具体的な販売部数は記録は残っていないが、この再販は大きな注目を集め、半減した蔦重の財産を補填するのに少なからず貢献したようだ。

蔦重を救った「ストライサンド効果」

冒頭で触れてしまったが、「ストライサンド効果」という言葉がある。

これは「情報を隠そうとする行為が逆に注目を集め、広く拡散されてしまう現象」を指す。2003年、米国の歌手バーブラ・ストライサンドが自宅の航空写真の公開差し止めを求め、かえって人びとの注目を集めてしまい、自宅写真が拡散するという事件が起きた。

インターネット時代では、削除要請や検閲がきっかけとなって関心が生まれ、隠そうとするほど情報が広まってしまうことが多い。ストライサンドの一件は、そうした逆効果の象徴として、いつしか「ストライサンド効果」と呼ばれるようになったのである。

ストライサンド効果は本来ネット上での現象を指すが、「情報を流通させまいとすると、かえって関心を高めてしまう」という点では、20世紀以前にも起きている。

たとえば1920年代の米国では「ボストンで禁止(Banned in Boston)」と銘打たれた書籍の売り上げが伸びた。19世紀から20世紀前半まで、ボストン当局は「好ましくない」内容の作品を禁止する権限があり、性的な内容や汚い言葉を含む作品もしばしば禁じられた。だがそれが逆に「ボストンで禁止=下品でセクシーなもの」というイメージを生み、人びとの好奇心をあおった。出版社はボストンでの取り締まりを逆手に取り、「ボストンでは禁止⁉」をマーケティングに使うようになった。

蔦重が寛政3年の処罰以降に取った戦術も、このストライサンド効果をうまく利用したといえるだろう。「ストライサンド効果」という名が付く200年以上も前からそれを使いこなしていたとは、さすが蔦重、転んでもただは起きない、といったところだろうか。

京伝本の売り上げをひとつの足がかりに、蔦重はいよいよ第2の黄金期ともいえる浮世絵販売に乗り出す。「べらぼう」も残り2カ月。彼の活躍を楽しみに見守りたい。
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小林 啓倫

経営コンサルタント
1973年東京都生まれ、獨協大学外国語学部卒、筑波大学大学院修士課程修了。システムエンジニアとしてキャリアを積んだ後、米バブソン大学にてMBAを取得。その後外資系コンサルティングファーム、国内ベンチャー企業などで活動。著書に『FinTechが変える!金融×テクノロジーが生み出す新たなビジネス』(朝日新聞出版)、『IoTビジネスモデル革命』(朝日新聞出版)、訳書に『ソーシャル物理学』(アレックス・ペントランド著、草思社)、『シンギュラリティ大学が教える 飛躍する方法』(サリム・イスマイル著、日経BP)など多数。

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