緊縮か積極か?現実路線を歩んだ田沼意次
意次は、8代将軍・吉宗と同様に倹約令を何度か発布している。例えば1771年には、米の不作を理由に、7年間の倹約令を出し、幕府内部の経費削減にも着手。また、天明大噴火が起きた1873年にも、同じく7年間の倹約令を発布している。その他にも大小さまざまなコストカット策を講じており、「緊縮財政政策の推進派」と呼んでも差し支えないほどだ。では、田沼は緊縮派だったのか、それとも反緊縮派だったのか――その答えは単純ではない。
江戸幕府の財政史を振り返ると、たびたび破綻の危機に見舞われ、そのたびに緊縮財政政策がとられてきたことがわかる。しかし切り詰められる予算には限度がある。家臣や武士の不満も考慮しなければならず、さらに天明大噴火のような自然災害が起これば、想定外の収入減少と支出急増に直面することになる。
こうした危機を乗り切っても、収入を増やす努力を怠れば、元のもくあみだ。意次がこうした緊縮策の歴史と限界を知らなかったわけはないだろう。そもそも彼は吉宗政権下で幕府でのキャリアをスタートさせている。
だからこそ、意次は対処療法的に緊縮を継続しながらも、重商主義的な政策を取ることで、財政問題を根本的に解決しようとしていたに違いない。この方針は、劇中で意次と平賀源内(ひらが げんない、演:安田顕)が繰り広げる政策議論からもうかがえる。
しかし実際には、意次は度重なる自然災害や疫病の流行などに見舞われ、突発的な支出を余儀なくされた。幕府は蓄えていた金銀や米を取り崩すしかなく、かつて300万両あったとされる幕府の備蓄金は、田沼時代の終
わり頃には81万両にまで目減りしたという(江戸時代初期には600万両あったともいわれる)。それだけ、危機への対応に追われていたということだ。
もしドラマのように、江戸城に登城した治貞が意次に「幕府の蔵にある米を放出すればよいではないか」「うちの藩ではそれでうまくいった」などと語っていたとしたら——。意次は、紀州藩主とはいえ8歳年下の治貞に対して「藩政と幕府運営では規模が違いすぎる。紀州はそれで乗り切れたとしても幕府ではとても無理だ」と感じたのではないだろうか。実際、紀州藩もその後、家中半知という最終手段に踏み切らざるを得なかった。そして治貞はこの政策を決断してから2年後に亡くなっている。
江戸幕府の財政史を振り返ると、たびたび破綻の危機に見舞われ、そのたびに緊縮財政政策がとられてきたことがわかる。しかし切り詰められる予算には限度がある。家臣や武士の不満も考慮しなければならず、さらに天明大噴火のような自然災害が起これば、想定外の収入減少と支出急増に直面することになる。
こうした危機を乗り切っても、収入を増やす努力を怠れば、元のもくあみだ。意次がこうした緊縮策の歴史と限界を知らなかったわけはないだろう。そもそも彼は吉宗政権下で幕府でのキャリアをスタートさせている。
だからこそ、意次は対処療法的に緊縮を継続しながらも、重商主義的な政策を取ることで、財政問題を根本的に解決しようとしていたに違いない。この方針は、劇中で意次と平賀源内(ひらが げんない、演:安田顕)が繰り広げる政策議論からもうかがえる。
しかし実際には、意次は度重なる自然災害や疫病の流行などに見舞われ、突発的な支出を余儀なくされた。幕府は蓄えていた金銀や米を取り崩すしかなく、かつて300万両あったとされる幕府の備蓄金は、田沼時代の終
わり頃には81万両にまで目減りしたという(江戸時代初期には600万両あったともいわれる)。それだけ、危機への対応に追われていたということだ。
もしドラマのように、江戸城に登城した治貞が意次に「幕府の蔵にある米を放出すればよいではないか」「うちの藩ではそれでうまくいった」などと語っていたとしたら——。意次は、紀州藩主とはいえ8歳年下の治貞に対して「藩政と幕府運営では規模が違いすぎる。紀州はそれで乗り切れたとしても幕府ではとても無理だ」と感じたのではないだろうか。実際、紀州藩もその後、家中半知という最終手段に踏み切らざるを得なかった。そして治貞はこの政策を決断してから2年後に亡くなっている。

緊縮も積極も、どちらの道も問題は山積み?(筆者がWhiskで生成)
田沼が去っても「田沼時代」は終わらなかった?
田沼時代の後、幕府のかじ取りを担ったのが松平定信(まつだいら さだのぶ、演:寺田 心/井上 祐貴)だった。彼は、いわゆる「寛政の改革」(1787~1793年)を進めることになる。定信もまた治貞と同じく、吉宗の孫にあたる人物であり、治貞と同様に、祖父・吉宗の享保の改革を参考にして、緊縮財政政策を軸にした財政再建に取り組んだ。
しかし前述のように、意次も緊縮財政を既に実施していた。つまり、寛政の改革が始まって急に倹約が求められたわけではない。近年の研究では、定信は意次の政策を全て否定したわけではなく、むしろ田沼路線を引き継いだ面もあったという評価もある。
そう考えると、田沼意次が幕府の表舞台を去った後も、実質的には「田沼時代」が続いていたといえるかもしれない。いや、むしろ当時の施政者がとり得る政策の幅は、時代背景や社会環境、あるいは地球環境などによって極端に制限されており、政府のトップが変わったからといって急激な転換は難しかったのだろう。意次も治貞も、そして定信も、それぞれの立場で限られた選択肢の中からベストだと信じる政策をとっていたはずだ。
ちなみに治貞はその後、善政を行ったと評価され、「紀州の麒麟(きりん)」と称されるまでになったそうだ。一方の田沼意次は、政敵が多かったこともあり、歴史上では「汚職政治家」の代名詞のような扱いをされることになる。近年では、田沼時代=暗黒時代というイメージは、失脚後に実権を握った松平定信派による意図的な印象操作だったという説もある。実際、平賀源内や杉田玄白などの知識人が田沼を評価していた記録も残っている。
治貞と意次の評価の差がどうして生まれることになるのか、ドラマの中でも描かれることを期待したい。
しかし前述のように、意次も緊縮財政を既に実施していた。つまり、寛政の改革が始まって急に倹約が求められたわけではない。近年の研究では、定信は意次の政策を全て否定したわけではなく、むしろ田沼路線を引き継いだ面もあったという評価もある。
そう考えると、田沼意次が幕府の表舞台を去った後も、実質的には「田沼時代」が続いていたといえるかもしれない。いや、むしろ当時の施政者がとり得る政策の幅は、時代背景や社会環境、あるいは地球環境などによって極端に制限されており、政府のトップが変わったからといって急激な転換は難しかったのだろう。意次も治貞も、そして定信も、それぞれの立場で限られた選択肢の中からベストだと信じる政策をとっていたはずだ。
ちなみに治貞はその後、善政を行ったと評価され、「紀州の麒麟(きりん)」と称されるまでになったそうだ。一方の田沼意次は、政敵が多かったこともあり、歴史上では「汚職政治家」の代名詞のような扱いをされることになる。近年では、田沼時代=暗黒時代というイメージは、失脚後に実権を握った松平定信派による意図的な印象操作だったという説もある。実際、平賀源内や杉田玄白などの知識人が田沼を評価していた記録も残っている。
治貞と意次の評価の差がどうして生まれることになるのか、ドラマの中でも描かれることを期待したい。

小林 啓倫
経営コンサルタント
1973年東京都生まれ、獨協大学外国語学部卒、筑波大学大学院修士課程修了。システムエンジニアとしてキャリアを積んだ後、米バブソン大学にてMBAを取得。その後外資系コンサルティングファーム、国内ベンチャー企業などで活動。著書に『FinTechが変える!金融×テクノロジーが生み出す新たなビジネス』(朝日新聞出版)、『IoTビジネスモデル革命』(朝日新聞出版)、訳書に『ソーシャル物理学』(アレックス・ペントランド著、草思社)、『シンギュラリティ大学が教える 飛躍する方法』(サリム・イスマイル著、日経BP)など多数。